六月二十六日

 クラスメイトの長松は、亜衣にまた今度聞かせてね、と言っていたが、彼女からの接触はなかった。あのときは面白がって話していたがもともとそこまで興味がなかったのだろう。もしかすると、亜衣に話しかけるための話題だったのかもしれなかった。長松は一人で過ごしている生徒を放っておけない性質だった。
 亜衣は友達が一人もいないわけではない。クラスメイトには顔と名前を認識されているし、話しづらい存在として扱われているわけでもない。ただの地味な目立たない生徒だ。しかし他の大勢の生徒のように、常に一緒に過ごす相手はいなかった。亜衣にとっていままでそれは小説だった。小説を読むのが楽しくて一人でいることは気にかけていなかった。
 しかし最近それができない。つまり小説が読めないのである。五月ごろから見られた傾向だが、本を開いても何時間も同じページを見続けていたり、初めから表紙を開かない日さえあった。原因は火を見るよりも明らかである。眩しい金髪が頭から離れず、亜衣には打つ手がなかった。


 現在亜衣の自宅には両親がいない。世界一周旅行に出かけているからだ。母の不在により昼食を自力で用意しなければならなくなった亜衣は、週に二、三回は購買部で昼食を購入していた。購買部は毎日雪崩のように人が訪れ、それが去ると山のようにあった商品は両手で掴めそうな量になる。そうなったら、亜衣は残り物を購入した。好き嫌いは特になかったし、あの戦場に自ら飛び込む勇気はなかった。今日もその通り残されたおにぎりとパン一つを購入した。そして渡り廊下の先にある自動販売機へ向かった。
 渡り廊下を渡ると、三年生の校舎と部室塔がある。亜衣は無意識にだったか心を躍らせかるい足取りで渡り廊下を歩いた。
「亜衣」
 自動販売機の前で商品を選んでいると、頭上から声がした。振り向くと、金髪と、眩しいくらいの白いシャツがあった。近くに立って並ぶと静雄の長身がより身近に感じられ亜衣の胸は高鳴った。亜衣の頭は静雄の肩よりほんの少しだけ下だった。
「三年の校舎にいるなんて珍しいな」
 静雄の低い声は心地がよかった。
「飲み物を買おうと思って、きたんです」
「弁当じゃないのか」
「はい。今、母が旅行でいないので」
「へえ。なんか意外」
 おまえって弁当自分で作ってそうなイメージだった、と静雄が呟いた。亜衣は決心した。明日から何時に起きてでも、弁当を作ろうと。
「ひとり?」
「あ、……はい」
「じゃー一緒に食おうぜ」
「え」
「嫌ならいいんだけど」
 亜衣は俯いた。絶対に顔が赤い。最近、一生分の運を使い果たしているような気がしてならなかった。
「うれしいです」


 窓の外はすっかり梅雨の天候だった。静雄は屋上に行きたがったがさすがに女子を連れて雨の中昼食を食べる気はないようだ。亜衣は安堵した。しかし一緒なら、たとえ雨の中でも構わないと思った。
「とっておきの場所があるんだ」
 静雄は得意げに笑った。自分で「10年前に生徒が自殺した」などと適当な噂を流し、人が近づかなくなった教室があるらしい。ドアの上にある看板には、「社会科準備室」と薄汚れたインクで書かれていた。
「社会科の先生はこないんですか」
「ちょっと前に新しい部屋ができたからな。ほら、入れよ」
「は、はい」
 静雄はドアを開け亜衣を先に入れた。奥の方から話し声がする。男の声だった。亜衣は身体を一瞬強張らせ静雄を振り返った。
「大丈夫だって。あれ新羅だから」
「新羅先輩……仲がいいんですね」
「そうでもねえよ」
 静雄は照れたように亜衣の言葉を否定した。
「あれー。静雄。誰か一緒なの?」
 新羅が堆く積まれた資料の合間からひょこりと顔を出した。亜衣の顔をみると目を丸くした。
「安藤さん」
「そこで会ったからつれてきた」
「へえ。こっちおいでよ」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
 部屋の奥は酷い有様だった。床には色あせた藁半紙が広がり、何語かわからない、地図が描かれた厚い本がたくさんあった。それらを無理やりかき分け椅子が何脚か無造作に置かれている。そのうちの一つには新羅が、もう一つには長い黒髪を後ろに流した、静雄のクラスメイトが座っていた。
「あ、あの。ごめんなさい。わたし……」
 何回か顔だけは見たことはあるが知り合いではない大柄の男に亜衣は完全に怯えていた。亜衣の後ろで静雄が声を上げて笑った。
「亜衣は俺より門田が怖いってよ」
「あ、ちがいます、いや、あの……」
「俺、そんなに怖いか」
「うん怖い、オールバックが」
 新羅の言葉に、男はうなだれた。静雄に促され椅子に腰かけた亜衣は無意識に助けを求めるように静雄をみた。
「こいつ、門田京平」
「自分で言うのもなんだけど、このメンバーだったら俺が一番常識人だからそんなに怖がらないでくれ」
「あ、はい、ごめんなさい。ごめんなさい」
「謝るな……」
 これ食べるか、と門田は亜衣に持っていたパンを差し出した。静雄はさらにおかしそうに笑う。新羅は我関せずといった様子で黙々とパックの牛乳を啜っている。
「安藤亜衣です。一年生です」
「若いよねえ〜」
「ほんとになあ。まだ六月だけど俺たちすぐ卒業しちまうからさびしいな」
「あ……」
 亜衣の隣に腰かけていた静雄は亜衣の頭をぽんぽんと撫でた。
 静雄は気付かなかったが亜衣が爆発した。頬は真っ赤に染まり、身体が硬直した。咥えていたパンが口からぽろりと落ちた。新羅とそんな亜衣をみて微笑ましく思ったが門田は驚いていた。亜衣はもう泣きそうな顔で新羅をみた。新羅は親指を立て、笑顔でぐっと前に突き出した。
「あの、門田先輩。さっきはごめんなさい。門田先輩は怖くないです」
 人相の悪い門田より、静雄の一挙一動のほうが亜衣にとってはよっぽど性質が悪い。亜衣は心底申し訳なさそうな顔をして門田に謝罪した。
「いや……気にしてねえ」
「それにしても安藤さんって不思議だね。僕はドタチンより静雄の方が怖いよ」
「そうですか……?」
 亜衣は先ほどの余韻が抜けず桃色に染まった頬のまま、瞳を伏せて言った。
「平和島先輩は怖くないです」
 門田はまた驚いて亜衣をみた。静雄は「おまえって本当に変わってるよな」と言いながら嬉しそうにした。