六月二十三日 体育祭の本番がやってきた。各々、最低でも三つの競技に出場しなければならないことになっていた。亜衣は二人三脚、棒引き、そして学年リレーに出場した。すべて終わったためもう帰宅しようかと思っていたが、パンフレットの一番最後に<第三学年全員リレー>の文字を発見し、残ることを決心した。静雄が走る姿を、結局あの日窓から見ることはできなかった。 六月の日差しは強烈だった。亜衣は決して病弱ではないが、容赦のない太陽光に眩暈を感じる。日陰はほぼなかったので、救護のテントに行くことにした。 「安藤さん」 一通り救護に必要な道具が揃ったテントの下で、涼しそうに体育着を纏った新羅がひらひらと手を振った。この暑いのに、まったく汗をかいていない。 「こんにちは」 「久しぶりだねえ。元気だった?」 「はい」 保険委員の仕事なんだ、と新羅が呟いた。どうやら交代でテントに居なければならないらしい。日陰を確保できるのは良いが、周りは教員ばかりで楽しもうにも難しいそうだ。 「安藤さんが来てくれてよかったよ、話す人誰もいないからさ。貧血かなにか?」 「多分ちがうと思います。少し眩暈がしただけなので大丈夫です」 「そう? 水飲んだ方がいいよ」 「ありがとうございます」 亜衣は新羅からコップを受け取り煽った。久々に体内に入った冷たい水は体にしみた。 新羅は亜衣をみて、変わった子だなと思った。静雄を怖がらなかったこともそうだが、何にも執着心がないようにみえる。普段の亜衣のことはよく知らないが、常に一緒にいる友人はいないようだった。 「あ、百メートル走」 「誰か出るんですか」 「静雄と臨也だよ。あれ、臨也のことは知らない?」 「ごめんなさい」 「謝らなくてもいいけど」 「変わった名前ですね」 臨也の名前を口にしながら亜衣は俯いた。新羅には亜衣の思考が透けて見えるようだった。一体この子はいつから静雄を好きなのだろうか。保健室では初対面ではなさそうだった。亜衣の胸の下まで伸びた長い髪は細く、子供のようだ。腕も、脚も細い。背も高校生女子としては決して高い方ではないから、総合的に小さい印象だった。静雄と並んだら兄妹のように見えるだろう。高らかに「好みのタイプは年上」と宣言していた友人を思い返した。まったく前途遼遠である。 百メートル走のスタートのピストルが鳴り響いた。 スタートダッシュの時点で静雄がすでに先頭だった。全校生徒が自分のクラスメイトを応援する暇もないまま、静雄が一番にゴールした。静雄の速さはまさに風のようであった。 「さっすがー」 新羅は口笛を吹いた。中学時代からの付き合いで、新羅は静雄の超人的な身体能力に慣れていたのだった。 静雄の圧倒的な速さはクラスに勝利をもたらしたが、声を上げて喜ぶことのできる者はいなかった。「平和島、よくやった!」と体育教師の上げた苦し紛れな声がきこえた。 「安藤さんはもう出場しないのかい?」 亜衣へ顔を向けて話しかけたが亜衣の返答はなかった。亜衣の瞳はただ静雄をみていた。文字通り釘付けにされて、まるでそこから動かせないかのように、亜衣はずっと静雄をみていた。その頬は桃色に染まり、薄い唇は少し開いていた。 ──ああ、やっぱり子供じゃなかった。 新羅は思った。少女は恋をすると、大人の女になるというではないか。そしてまるで父親のように、うむと頷いた。 亜衣は三年生の全員リレーを救護テントの下から見ていた。新羅は普通だった。静雄は相変わらず有り得ないほど速かった。そして先日窓から覗いた三年生の体育の授業で、静雄に話しかけていた男子生徒も静雄には及ばないが大きく勝利に貢献していた。そして一番足が速かったのは、名前は解らないが細身で小柄の、黒髪の男子生徒だった。彼がグラウンドに立つと女子から黄色い声援が上がり、男子も野太い声で叫んでいた。その期待を裏切ることなく、彼は見事アンカーとして一位を取ってみせた。もしかすると、先ほど新羅が言っていた「臨也」があの男子生徒なのかもしれないと、亜衣は頭の片隅で思った。距離があったのでよく見えなかったが、確かに整った顔で、女子に人気なのも納得できた。 「亜衣、怪我したのか」 亜衣の背後から低い声がした。考えなくてもわかるのだ。この学校で亜衣を名前で呼ぶ男など一人しかいない。しかし亜衣は信じられなかった。 「それとも貧血か? 暑いからな」 水飲めよ、と静雄はコップを亜衣の頬に当てた。柔らかい亜衣の頬はぐにゃりと変形する。コップが当たった部分が冷たい。だけど熱い。不思議な感覚だった。 「変な顔」 静雄が笑った。亜衣はようやく理解した。 「平和島先輩」 「よー」 静雄は亜衣の隣のパイプ椅子に腰かけた。 「閉会式出るか?」 「……」 「俺は帰るけど」 「えッ、帰るんですか」 「おう。居ても意味ねえし別に興味ねえし」 「あの、平和島先輩」 亜衣は唾をごくりの呑み込みかるく深呼吸をした。そして静雄をみた。 「あの……さっきの」 「ん?」 静雄の金髪が強い陽の光できらきらと輝いた。思わず亜衣は目を細めた。 「かっこよかったです」 言った瞬間に目を逸らした。頬が熱くて恥ずかしかった。 「ありがとな」 亜衣は、静雄のことが好きだと、今度こそ気付いた。 |