六月十日

 池袋に流れる空気は、完全に夏だった。この温度と湿気は、初夏なんて生ぬるい言葉では決して表現できないものであった。高校では衣替えの時期が定められており、それまではブレザーを着て登校しなければならないはずだが、ほとんどの生徒、特に男子生徒はシャツ一枚かベストのみだった。亜衣も暑いのでベストで登校しようか一瞬悩んだが、やはり手はブレザーを取っていた。校則を破ることはなぜかできなかった。
「いってきます」
 両親の寝室に向け声を掛けたが、返事はなかった。亜衣は、両親が結婚二十周年を記念して世界一周旅行に昨日出発したことを思い出した。一周とは言っても、五か月間の旅行だ。母は、亜衣は料理もできるから大丈夫よね、と言い残してあっさり去って行った。しかし亜衣はそれほど料理の経験もないうえに、家事全般に関して不安を持っていた。五か月間ひとりで、果たして自分はやっていけるのだろうか。と。


 亜衣が教室に入ったころには、クラスメイトはほぼ全員登校していた。そのほとんどが、ブレザーを着ていない。亜衣は、自分の席に着くとブレザーを脱いで椅子に掛けた。
「安藤さん、おはよう!」
 体育の授業中に亜衣保健室まで連れて行ったバレー部の主将、長松だった。明るく染めた長い髪をポニーテールにして、いかにも健康的だ。
「おはようございます」
 亜衣は話しかけられたことに驚いた。
「怪我はもう大丈夫?」
「はい。長松さんのおかげです」
「そんなことないよ! あのさ、あのとき保健室に人いたじゃん」
 誰のことを言っているのだろうと思った。新羅とは知り合いだったようだが、あのとき長松の位置から静雄は見えていなかったはずであった。
「新羅先輩ですか」
「あ、そういや岸谷先輩もいたね」
「お知り合いなんですか」
「保険委員で一緒なんだよね」
「そうだったんですか」
 保険委員というだけでは、新羅の治療の手際の良さは説明しきれないような気がした。長松は、亜衣の隣のまだ人が来ていない椅子に座り、亜衣に身を寄せた。亜衣はほんの少しだけ仰け反ったが長松は気付かなかった。
「ねえ、あのときさ、平和島静雄がいたよね」
 内緒話をするように亜衣の耳に掌を添え、長松は囁き声で言った。その口調はもはや疑問ですらなかった。
「あ、……はい。いました。見えていたんですね」
「うん、チラッとね。岸谷先輩が平和島静雄と仲良いっていうのは有名だからいいんだけどさ。安藤さん大丈夫だった?」
「え?」
 長松は亜衣を心配している風を装っていたが明らかに面白がっていた。そこに敵意は感じられなかった。しかし静雄に対して決して良い感情を抱いていないことも明白だった。
「どんな人かは知らないけどさあ。この前は三年の女子の先輩に怪我させたっていうし、危ないでしょ」
「そんなに悪い人にはみえませんでしたけど……」
「それって岸谷先輩がいたからでしょ。ねえ、やっぱ怖かった? てか、近くで見てどうだった? あの人顔だけはかっこいいから、密かにあこがれてる人もいるんだよね」
 亜衣は答えられなかった。ちょうどいいタイミングで鳴り響いたチャイムで、長松は残念そうに立ち上がった。今度聞かせてねと言って自分の席へ戻って行った。
 あの保健室を思い返した。何もされなかったし、怖くはなかった。揺れる金髪が陽の光できらきらして、目を逸らしたくなった感情が、いつまでも亜衣の中に残っていた。


 亜衣の席は窓際だった。つまらない授業のときはいつも、窓の外を見ていた。知らないクラスの生徒たちが体育の授業を受けているのを見るのは、退屈な地学の授業より面白かった。
 今日は三年生の授業だとジャージの色で分かった。リレーの練習をしているらしく、クラス全員を四等分にしてチームを作り争っていた。
 その中に静雄を見つけた。
 静雄はすらりとした長身と金髪で目立っていた。亜衣は保健室で静雄と目が合ったときのように、体温が上がったような気がした。静雄は気怠そうに突っ立って空を見ていた。クラスメイトにも怖がられているのか、周りには人がいないが、長めの黒髪を後ろへ流した、静雄と同じくらい長身の男子生徒が静雄に声を掛けた。静雄は空気を一変させ、笑って対応していた。
 もしも、静雄が、自分にもこんな対応をしてくれたら、目が合うと笑顔になってくれたら。亜衣は目を閉じて想像した。
 静雄の笑顔をもっと近くで見たいと思った。