五月三十一日

 その日はよく晴れていた。一億五千万キロメートルも遠いところにあるというのに、太陽はかわらずギラギラとした光と熱気を地球に注ぎ続けている。五月もおわりになると夏の空気が確実に流れてきていた。
 来神高校では体育祭が六月のおわりにあった。ちょうど今の時期から練習が始まるところで、体育の授業は大体リレーか長距離走の練習にまわされる。亜衣のクラスは足の速い生徒が多く、凡人は頑張らなくとも勝利が見込めた。そして亜衣も、運動はあまり好きではないのでそれなりにやっていこうとしていた。
「安藤さん! 大丈夫?」
 亜衣はリレーの練習中、カーブを上手く回りきれず転倒した。足を擦りむいたが受け止めようとして失敗した腕の方が酷く負傷していた。
「立てる?」
「はい」
「保健室行こうか」
「ごめんなさい」
 いかにも周りの人間を引っ張っていけそうな快活なクラスメイトが、亜衣に駆け寄り手を貸した。彼女はバレー部の主将であると亜衣は知っていた。責任感の強い子だった。教師にその旨を伝え、彼女は亜衣の肩に腕を回しゆっくりと歩き始めた。
 保健室までは遠くない。会話はなかったが気まずさはさほど感じなかった。声を出さずともわかる彼女の持つ明るさのせいだと亜衣は思った。
「ありがとうございます。一人でできるので大丈夫です」
 保健室の扉の前でクラスメイトの手をゆっくりと離した。
「そう? でも中まで一緒に行くよ」
 彼女は再び亜衣の肩に腕を回し扉を引いた。亜衣は、彼女に聞こえないくらいの小さな声で「ありがとうございます」と言った。
 扉を開けると、男の背中がみえた。長く左右に広がっている特徴のある髪型だった。彼を見た途端クラスメイトが明るい声をあげた。
「あ! 岸谷先輩じゃないですかあ」
 男が振り向いた。白衣を着ていたので保険医にみえたが、顔立ちは高校生のそれだった。白衣で眼鏡の男の向かいでは、見覚えのある金髪が不機嫌そうな顔をしていた。亜衣の心臓が、今日初めて仕事を始めたのかと思うくらいにはやく動いた。
「長松さん。その子どうしたの。怪我?」
「はい。岸谷先輩がいるなら安心ですね! 治療は任せました!」
「ああうん、いいよ、行って」
「ありがとうございまーす」
 クラスメイトは明るい笑顔を亜衣に向け、「任せとけば大丈夫だから」と伝え去って行った。彼女の支えがなくなり、亜衣の膝はがくんと折れた。
「あ……」
 白い腕がみえた。亜衣は白衣の腕に支えられ本日二度目の転倒を免れた。クラスメイトに岸谷先輩と呼ばれた男は目が合うと笑った。なんだか得体のしれない笑みだった。すぐに亜衣から目を逸らし、「はいはい静雄そこどいて、女の子優先だから」と金髪をどやしたので亜衣が礼を伝える隙がなかった。静雄は顔を上げ友人に支えられ体勢を直した亜衣をみた。
「おまえ……」
「あれ。静雄に女の子の知り合いがいるなんて」
「いや、知り合いっつーか」
 静雄は白衣の男に身体を預けたままの亜衣を思案するようにしばらく見ていた。亜衣は自分の体温が体の奥からじわりと上昇した気がした。
「誰だっけ」
 静雄の言葉に、亜衣は眩暈を感じた。


「つうか新羅、いつまでそうしてんだよ」
 静雄の言葉で、亜衣ははじめて自分がどのような状況にいるのか冷静な頭で認識した。いま亜衣を支えている白衣の男はどうやら新羅というらしい。変わった名前だ。亜衣は急に、自力で立てないとはいえ男に支えられているという事実が恥ずかしくなってきた。
「あの、……新羅先輩。わたしは大丈夫です。ありがとうございます」
 新羅は先ほどと同じ笑みでどういたしましてと笑い、静雄を立たせ、静雄の座っていた椅子に亜衣を座らせた。その仕草は実に手馴れており、まるで介護士かなにかのようだった。そして、黙々と亜衣の腕を取って消毒を始めた。
 静雄は亜衣の顔を見つめながら、いつ会ったことがあるのだろうかと考えている。見つめられていることは嬉しくもあったが、ここまで自分の存在が静雄の頭から消え去っていることに関してはとてつもなく悲しくもあった。
「俺と会ったことあるよな」
 静雄は訊ねた。まさか静雄の声が自分に向かっているとは思わず、亜衣の肩がびくりと震えた。
「静雄、そんな言い方して怖がらせちゃだめでしょ。相手は年下の女の子なんだからね」
「ああ、悪い……」
「あ、ち……ちがいます」
 亜衣は自分の声が少し震えていることが恥ずかしく、そして静雄に対して申し訳なくもあった。彼が周りの人間に恐れられていることは知っていた。
「わたし、……平和島先輩と図書館で会ったことがあります」
 名前を呼んでもよいのかと迷った。しかし、呼べば思い出してくれる気もした。静雄は数秒間脳内を検索しているようだったが、すぐにああ、思い出したと言った。
「俺の反省文渡してくれたんだったよな」
「なにそれ。反省文って」
 新羅が顔を上げた。静雄は新羅の言葉を無視した。
「あの時はありがとな。まあ、まだあれ書き終わってないんだけど」
「そうなんですか。大丈夫なんですか」
「いや、全然大丈夫じゃない。提出五月いっぱいまでって言われたし」
「五月は今日でおわりだけどね」
 またしても言葉を挟んだ新羅の頭を、静雄の掌がぱしんと攻撃した。さして力を入れたようには見えなかったが新羅は拳で殴られたかのように痛がり、涙目になって静雄を罵倒した。
「君、一般人に対してもっと自重すべきだと思わないのかい」
「うるせえ」
「あやうく脳震盪を起こすところだったよ」
 亜衣は思わず笑った。静雄の暴力の噂を聞き、それを目の当たりにしてから、静雄は孤独を味わっているのだと思っていた。しかし違った。目の前の二人は明らかに友人だった。
「笑うなよ」
「ご、ごめんなさい」
「別に怒ってねえけど」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「はい」
 新羅が手をぱんっと叩き、「はいおわり」と言った。亜衣の腕は綺麗に消毒され、白い大きめの絆創膏が貼られていた。クラスメイトの「任せとけば大丈夫だから」という言葉が蘇った。彼は医者を志望しているのだろうか。
「ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず」
 新羅は立ち上がり、消毒液などを仕舞いに棚の方へ行った。静雄は、亜衣が部屋に入ってきたときに新羅が座っていた、向かいの椅子に腰かけた。
「そういえば、おまえ名前なんていうんだ」
「安藤亜衣です」
「おうわかった。亜衣だな」
 静雄は笑顔で、あまりにも自然に、名前を呼んだ。亜衣は勢い良く俯いた。絶対に今の自分は顔が赤い。静雄は見たところそういうことに鈍そうだが、いくらなんでも名前を呼ばれただけで頬を染めるなど、亜衣にとっては恥ずかしかった。
「亜衣って、一年?」
「はい」
「じゃあ、俺ら一年間も一緒にいられないんだな」
 窓の外を見ながら静雄が呟いた言葉に、新羅はしみじみとそうだねえと相槌を打った。てっきり新羅はからかうものだと思った亜衣は俯いたまま驚いた。
「亜衣が普通に話してくれて、俺すごいうれしかったんだ」
 静雄は言った。
「ありがとな」
 亜衣はわたしもうれしかったですと、言いたかったが言えず、俯いたまま深く頷いた。少し離れたところから静雄の背中越しに亜衣を見ていた新羅は、ふぅと小さく息を吐いた。