五月二十三日

 五月の後半ともなると図書室は勉強する高校三年生で埋まりつつあったが、自習用の机と読書用の机は完全に分離されており、亜衣が肩身の狭い思いをすることはなかった。それに、放課後や休み時間に図書室で読書をする生徒など亜衣のほかには二、三人しかおらず、むしろ椅子は余っている。
 亜衣は初めて平和島静雄を目撃してから、やたら耳に彼の名前が入ってくることに気が付いた。平和島静雄は、思っていたよりもかなり頻繁に喧嘩を売られているらしく常に噂にされていたのだ。それも、彼の拳により怪我をした人数があまりに多く、大概「知り合いの一人か二人は平和島静雄に殴られた」状態だからだ。
 亜衣は図書室の扉を引き顔なじみの司書に挨拶をした。入学して二か月足らずだったが、毎日訪れている為顔を覚えられていた。図書室は、予想通り真面目そうな三年生が勉強をする姿が多くみられる。
 部屋の端で、天井まである高い本棚に隠れている読書する生徒専用の机へ向かった。一番近くの本棚から今読んでいる広辞苑のように分厚い小説を取り出し、椅子を引いた。
 正面には、背の高い金髪の男子生徒が座っていた。


 静雄にとって、今日は最低な一日だった。
 まず登校時校門に入る前に他校生に絡まれた。それ自体は十分程度で済ませたが、昇降口にたどり着くまでに計三十人程が待ち構えていた。それも十分程度で済ませたが、喧嘩を売ってきた男子生徒たちが連れていた女子生徒四人にも怪我を負わせてしまった。そのおかげで罰として三千字の反省文を書かなければならなくなり、おまけに六月の体育祭ですべての陸上競技に出場しろと命じられた。静雄は学校で一番(折原臨也を除いての話だ)足が速いためクラスとしては是非出場して貰いたいが、教師でさえ彼に面と向かって頼むことが出来るものはただの一人もいなかったのだ。
 教室に居続けるのはなんとしてでも避けたかったため、反省文は図書室で書くことにした。入学してから一度も入ったことがなかった。図書室には勉強する生徒ばかりで、そこはかとなく自分が場違いに感じられ、端の方の人がいない机に座った。外国語の、魔導書のような分厚い小説が天井まである高い本棚にギッシリと詰まっており、明らかに自分の居るべき場所ではないと静雄は確信した。


 目の前にいるのはどう見ても平和島静雄だった。まさかこんなところ、図書室で出くわすとは思いもしなかった。四十人を倒した彼は、とても本を読むような人間には見えなかったのだ。亜衣は椅子を引いたまま座りもせず静雄を見て固まっていたが、静雄は亜衣の存在に気づかずに必死で文章を書いている。一行書いて、半分消して、溜息を吐いて、さらに半分消す。その作業を繰り返す静雄の手元の紙は、まだ四分の一も埋まっていなかった。
 亜衣ははっとして、引いたままだった椅子に腰かけ、小説を立てて読む振りをして正面の静雄の顔を盗み見た。少し痛んでいる長めの金髪で伏せられた瞳は見えないが、時折小さな舌打ちが聞こえたので、手元の文章は相変わらず進んでいないと分かった。
「平和島くん」
 司書が囁き声で読んだ。その表情には焦りが感じられ、顔を上げた静雄も怪訝な顔をした。
「金成さん──鈴木くんの彼女のあの子、今朝平和島くんが怪我させちゃった子、わかる?」
 静雄が頷いたので司書は焦りの表情を崩さぬまま話を続けた。
「金成さんのお母さんが何だか怒ってるみたいなの。校長先生に電話が来たそうよ。貴方に会わせろって」
 静雄は眉間の皺を更に深くさせ「分りました。ありがとうございます」と司書に告げ、手元の紙とシャープペンはそのままに、大股で図書室を出て行った。静雄の低い声は決して大きくはなかったが、亜衣の耳の奥についた。
 亜衣は一部始終を呆然と見ていた。司書は亜衣に苦笑いを向け、「良い子なのにね」と呟いた。その日は意味もなく、静雄が置いて行った下手な字で書かれた反省文を見つめ続け、小説は一ページも読み進められなかった。