五月一日

 安藤亜衣は小説が好きだった。特に絶対に実現することの有り得ない世界を描いた小説が好きだった。いや、勿論今も好きだ。
 亜衣は放課後は毎日図書館で小説を読んでいた。部活には入っていなかった。続けることが出来ないと初めから解っているからだった。現実は嫌いだ。亜衣は人と深く関わり合うことを諦めていた。
 本を読むことで、魔法や吸血鬼や狼男、それに妖精さえも生きている世界に行けることが楽しかった。出来ることなら亜衣は妖精に成って、魔法使いに奉仕して一生を終えたいと思っているくらいなのだ。
 そんな亜衣でさえ眼前の出来事は信じがたかった。
 つい歩みを止め右手に持っていたスクールバッグを地面に落とした。中に入っていた固い水筒がコンクリートにとぶつかり大きな音がしたが、この場でそれに気付く人間は居なかった。
 何故なら少女から十メートルも離れたところでは、ざっと見て四十人は居るであろう男が、煙を上げて乱闘していたのだ。彼ら全員が纏う服装は紛れもなく来神高校のものだった。


 何分経ったのか解らなかった、もしかしたら三十秒の出来事かもしれなかった。四十人居たはずの男子生徒がいつの間にか全員血を流し地に伏していた。たった一人金髪の男を除いて。
「……」
 亜衣は金髪の生徒に怪我が大丈夫か問おうと口を開き、やめた。
 彼は少し俯き激しい呼吸を短く繰り返しており、シャツは破られその下に見える肌からは痛々しい傷が覗いている。その手には鉄棒が握られていた。その棒が何か、亜衣は目をよく凝らさないと見えなかったが、すぐに分かった。あれは非常階段の手すりだ。校舎の右端の階段は手榴弾でも投げたかのように完膚なきまでに粉砕されている。この状況からして階段は金髪の男の仕業だと見て良いだろう。なにせ彼は、おそらく四十人の男子生徒と喧嘩をして一人残らず失神させたのだから。だとすればどれほどの怪力の持ち主なのだろうか。
 亜衣は何もすることが出来ずに、相変わらず十メートル離れたところで彼を見ていた。男は大きな舌打ちをして、手にしていた鉄棒を勢いよく地面に投げつけ、地に伏した哀れな男たちを一回り睨んだ。そして、大きな溜息をついた。
 亜衣が何をするひまもなく男は気怠そうな足取りで校舎へ入って行った。
 亜衣は取り残された。いや、男が亜衣を認識していなかったのだから正確には置き去りとはいえない。
 亜衣はそのまま十分間立ちすくんでいた。


 亜衣は平和島静雄の名をすぐ知った。
 翌日、亜衣が目撃した乱闘は、平和島静雄にただの一度も勝つことが出来ずにいる集団が、平和島静雄に挑んだ記念すべき百五十回目のたたかいだったと分かった。集団のリーダーと思われる鈴木という男子生徒が「まだ平和島に喧嘩売るなんてアイツこの三年間で何にも学んでなかったんだな」と馬鹿にされていた。
 クラスメイトの会話を盗み聞きした結果、平和島静雄は喧嘩が恐ろしく強いだけでなく規格外の怪力の持ち主であるらしい。粉砕された非常階段のおかげで亜衣には妙な実感があった。
 まるでファンタジー小説か少年漫画の主人公のようなひとだ。そう思うだけで、まわりの人間のように恐怖や嫌悪の感情は湧いてこなかった。と言うのも、平和島静雄が本当に皆の言うとおり「喧嘩人形」だったとして、亜衣が関わることなど有り得ないと断言出来るからだった。亜衣は読書好きの地味な一年生で静雄は名前を知らぬ人の方が珍しいくらいの有名人だ。
 卒業するまでどころか、一生関わり合うことなどない。