七月八日

 七月二十日からは夏休みが始まる。しかしその前に、浮かれる高校生に待ち受けているのは定期考査だ。放課後、図書室に寄って小説を読むのが亜衣の習慣だったが、テスト前は勉強をしにきていた。はじめ三年生に混ざり勉強をしていた亜衣だったが、司書がいつもの場所で良いと言うので、亜衣は好意に甘え、いつも通り読書をする机に移動した。
 亜衣は自分の頭が可笑しいのかと思った。文字を書くたび、きつく縛られた手首の痕が傷む。その痛みさえもなんだか愛しかった。静雄の恋人だと勘違いされたという事実は、暴行された事実とは別に亜衣の頭にインプットされていた。静雄との大きすぎる身長差も、隣に並ぶとかみ合わない雰囲気も、亜衣は理解していた。それでもこうなったのだ。亜衣を傷つければ静雄が傷つくと、あの三年生は考えたのだ。自分の所為で亜衣が怪我を負ったと知れば、静雄は自分を酷く責めるだろう。そして「どうして亜衣を傷つけたんだ」と、あの三年生達を殴りに行くに違いない。
 静雄が優しい人間だと、亜衣はわかっていた。静雄のそういうところが、亜衣は好きだった。たとえその優しさの源が自分への愛でなくとも、好きだった。


 亜衣は普段通りに渡り廊下を渡った。再びあの男子生徒に絡まれる可能性は無きにしも非ずで少し怖かった。しかし、門田が恐らく心配する必要はないだろうと言ってくれたので、亜衣はいつも通りの生活を送ることに決めたのだ。(あの日から数日後、亜衣を襲った生徒たちは門田によって全治三か月の怪我を負ったことを亜衣は知らな
い。) 
「亜衣」
 飲み物を選んでいると上から声がした。低くて、落ち着いていて、亜衣の心にすとんと落ちる声。
「平和島先輩」
 亜衣は振り返って少しだけ微笑んだ。いや、本人にそんなつもりはなかったのだが、静雄の顔を見ると亜衣は無意識に微笑んでいた。静雄はその笑顔をみて、ぐっと息を呑んだ。
 亜衣の白い頬には少し赤くなった擦り傷があった。亜衣が負った怪我の殆どは、制服と長いスカートで隠れていた。しかし顔と首は、隠せない。亜衣の首筋には、これ見よがしにキスマークが沢山着けられていた。亜衣は強姦されたわけではない。されそうになった瞬間、門田が亜衣を救ったのだった。亜衣の首の痕は、明らかに静雄に対する挑発が込められていた。
「その怪我、どうしたんだ」
 静雄はできるだけ平静を心掛けた。必死で我慢をしなければ亜衣に怒鳴りつけてしまいそうだったからだ。静雄の握りしめた拳には爪が食い込んでいた。
「なんでもないんです」
 亜衣は静雄の顔をみて、首を横に振った。その表情に静雄への悪意はなかった。
「なんでもない?」
「はい。大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
 静雄は歯を食いしばった。明らかに大丈夫ではなかった。静雄は亜衣に恋人がいないことを知っていた。だからこの首筋の痕は亜衣の恋人によるものではないのだ。だとしたら、静雄にはたった一つの可能性しか考えられなかった。
「じゃあなんなんだよ、これ」
 静雄は自らの理性を総動員して無表情を作り出し、自分の首をトントンと叩いた。亜衣にはそれで伝わったらしく、亜衣は目を見開き頬を染めた。その表情はかつて、静雄に撫でられて頬を染めたような可愛らしいものではなく、確実に恥を含んでいるものだった。
「あの……大丈夫です。本当になんでもないんです」
「大丈夫じゃないだろ……」
 狼狽した亜衣に、ついに静雄は切れた。もともと低い声が更に低くなり、握っていた拳が震えた。
「なんで俺のこと責めないんだよ」
 静雄は俯いた。背の低い亜衣には静雄の表情がはっきりとみえた。歯を食いしばり、必死に大声を出さないように自分を押さえつけているのがわかる。
「俺のせいだろ、それ」
 静雄の絞り出した声は、泣きそうだった。亜衣は静雄を見上げ、再び首を横に振った。笑顔を作ろうとしたが、うまく笑えているかはわからなかった。
「お前みたいな優しいやつは俺が近づいちゃいけないんだ」
 静雄が顔を上げた。亜衣は、静雄の顔をみて、やっぱりこの人が好きだと、実感していた。
「ちがうんです。平和島先輩は悪くないんです。わたしが力不足だったから」
「何言ってんだよ、お前が喧嘩で男に勝てるわけないだろうが」
「そうじゃなくて……」
「誰にやられたんだよ、それ」
 静雄は拳を握り直した。亜衣の首の痕は、驚くほど体温を高くし、静雄が思っていたよりも低い声が出た。亜衣の肩が一瞬だけ震えたのがみえたが、もう抑えることができなかった。
「名前はわかりません」
「顔は? 髪型とか、なんでもいいから」
「平和島先輩」
「誰にやられたかって聞いてんだよ、俺が今からぶっ殺して……」
「平和島先輩っ」
 亜衣の大きな声が静雄の言葉を遮った。言い過ぎたかと静雄が口を噤むと、固く握りしめられた静雄の拳に亜衣の手が添えられた。
「平和島先輩のそういうところが、好きです。そんなふうに優しいところ」
 亜衣の手は静雄が思っていたより何倍も小さく、そして何倍も暖かかった。きゅ、と静雄の拳を包んだ亜衣の両手は震える。
「だけど、この手で、人を殴ってほしくないんです」
 静雄は頭から冷水を打ち掛けられたような衝撃を受けた。
 そして亜衣が泣きそうな顔をしていたから、喉の奥が急に熱くなった気がした。
 亜衣の両手の温もりは、この瞬間以降、一生自分には与えられ得ないもののような気がした。