身体を動かさずとも汗が滴り落ちる程、鬱陶しい暑さだった。私の勤める旅館──虎屋──は今日は休みだ。本来稼ぎ時のこの時期に休むことなど有り得ないのだが、今日だけは特別なのだ。
 丁度、坊と廉造君達が帰ってくる日だった。

 年にそう何度も会えるものでも無いのだから、今日は宴会でもしましょう。出張所職員の誰かがそう言った。其れを聞いた誰かがそうだ、そうだ、今日は飲もうと叫んだ。此処最近の仕事量と、何より暑さに参っているのだ。確かに、十分な休息は取れていないようだった。飲もう、飲もうと叫びながら倒れそうな彼らに麦茶を出すと、泣きそうな顔で礼を言われた。
 もう随分と暑さが続いている気がする。蝉が鳴き終わるのは、一体何時なのだろうか。


 時計の短針が三の字を指す前に、坊達は帰ってきた。私が東京からこの虎屋に来たのはつい二三年前のことだから、私は坊とそう面識がある訳ではない。彼は能く勉強をする人だったし、この旅館を継ぐ心算も無い様で、旅館を歩き回ることもなかったから、顔を合わせたことはあまり無かった。ただ虎子さんが、新しく入った子だから、と一度だけ彼に紹介してくれたことがある。坊は無愛想におん、とだけ言った。宜しくお願いしますと頭を下げたが、顔を上げたら既に彼は其処に居なかったので、恐らく坊は私を認識していないだろう。
 対照的に坊と同い年の廉造君とは能く喋った。虎屋の女中では私が最年少だったのがその理由だと思う。廉造君は若い女の子が大好きらしい。学校の女子よりレナは大人やから良いんや、と彼は言った。大人と言っても、四五歳しか離れていませんと言うと、その四五歳は随分大きい、あとレナは関西弁を喋らんのが良い、と返された。能く解らない──否、全く意味が解らなかったが、褒められているのは確かな様なので取り敢えず笑って置いた。廉造君は能く笑うので好きだった。

「レナ!」

 懐かしい声だった。振り返ると坊と子猫丸君と廉造君──頭髪が形容しがたい色に染められている──の三人が揃って立っていた。
「坊──それに子猫丸君、廉造君も、お帰りなさい」
 慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「なんや、俺は序でなんか? 寂しいなあ俺は東京に居る間もずうっとレナを想っとたんに──てか、なんで折角休みなんに掃除したはるん? ホンマに真面目やなあ、変わっとらん」
「志摩、困らすな」
 相変わらずのへらへらした笑顔で喋る廉造君を、坊がばしっと叩いた。廉造君は結構痛そうにしている。慣れているのか、子猫丸君は何時もの優しげな笑みを浮かべている。きっと東京でも之が日常茶飯事なのだろう。
「廉造君は──坊も子猫丸君も、変わりましたね」
 そう言うと、坊がそうか? と訊いた。そりゃあ、そうだ。坊と廉造君は一年前よりずっと背が伸びたし、何より廉造君は髪の色が変わった。そして三人とも纏う雰囲気が何処と無く前と違う気がするのだ。きっと何か沢山のことを経験したのだろう。
「はい、何だか大人に」
 三人共、嬉しそうに笑った。

 三人の帰郷を歓迎する宴会は、そりゃあもう、凄いものだった。脱いで踊る人も入れば大声で歌う人も、何故か泣き出す人まで居た。余程疲れが溜まって居たのだろう。
 柔造さんが、坊達に挨拶をしていた。優しそうな垂れ目は兄弟揃ってそっくりだ。柔造さんに頭を撫でられ、廉造君は切れた。子猫丸君は爆笑していた。なんて、なんて平和なのだ。ずっとこの今が続けば良いのに。目を閉じて祈った。
「レナ」
 喧騒の中、私の名前を呼ぶ声がした。瞳を開いても視界には先程と同じ光景が映る。でもあの声は──。
 振り向くと金髪の、廉造君と柔造さんにそっくりの瞳が有った。
「きん」
 私が名前を全て呼び終わる前に、彼はぐっと私の腕を掴んだ。がくんと揺れる視界の中で、悪戯っぽく笑う口許が見えた。
「抜けんぞ」
 彼は強引に私の腕を引っ張って、宴会場から走って抜け出した。
「ちょっ、金造さん」
 私の名を呼ぶ廉造君の声が聞こえたが、彼は無視して、中庭の縁側まで走った。


 未だ呼吸の整わない私と、廉造君の兄──金造さんは並んで縁側に座っていた。夜空に浮かぶ月は涼しげで美しいが、生憎空気はねっとりとしていて蒸し暑い。
「相変わらず弱いなあ。ちょっとしか走ってへんのに」
 私の背中を摩りながら金造さんが言う。笑いを含んだ低い声に、少しだけ心臓が高鳴った。彼の声を聞くのは久しぶりだった。
「大体、金造さんが走るからです。どうしてあんなことするんですか? 普通に呼んでくれれば、行くのに」
 金造さんは口を尖らせながら、一つに括った私の髪を梳いて遊んだ。
「廉造が離さへんやろ」
「そんなことありませんよ。柔造さんとお話ししてました」
「ありゃ俺が頼んだんや」
「え?」
 金造さんの大きな手がぐっと私の髪を掴んだ。
「放っといたら廉造が朝までお前を離さへんのは解っとんねん。さかいに柔兄に廉造捕まえて貰っとったんや」
「……其れこそ、普通に呼べば良かったじゃないですか」
「やってみたかっただけや」
 金造さんは、人ごみの中からお前を攫うのを、と小声で言った。私は更に俯いてしまった。彼は一体、こんなに恥ずかしいことを言ってのけるような性質の人間だっただろうか。
「髪伸びたなあ」
 金造さんの手が、私の髪を弄びながら、括っていた紐をするりと解いた。胸の下まで伸ばしている髪が首にはらりと係って暑くて、鬱陶しい。でも、金造さんが髪に触れるのは好きだったから何も言わなかった。
「染めへんの?」
「え?」
「髪、茶色とか、金とか──似合うと思うけど」
「そんな、廉造君じゃないんですから」
 ふふっと笑うと彼はまた唇を尖らせ、なんで廉造が出てくるんやとごねた。
「自分で言ったことも忘れるのが早いんですね。黒髪が良いと言ってくれたのは金造さんですよ」
「……そやっけ」
「そうです。それから私も、気に入っているんです」
 金造さんに頭を撫でられるのは好きだ。大きな手に包まれると安心する。私の頭蓋骨などは金造さんの手でがしっと掴むことが出来てしまうのだ。そうして思考の全てが彼に支配されてしまう。私は其れが幸せだ。出来るならずっと金造さんのことを考えていたいと思う。
 金造さんの笑い声が聞こえる。
「ホンマにかいらしいなあ。猫みたいや」
「褒めても、何も出ません」
「ああ、はいはい」
 頭をゆるゆると撫でていた手が不意に後頭部に回って、ぐいと引き寄せられた。声を上げるより前に、私の唇は金造さんによって塞がれた。急に体温が上昇するのを感じる。まとわりつく湿度の高い空気の存在を急に思い出した。金造さんに触れられるのは、一か月ぶりだ。
 金造さんは飽きることなく、恥ずかしげもなく音を立てて、口付けを繰り返す。ふわりと金造さんの香りを鼻腔に感じてしまった時点で私は彼にされるがままだ。抵抗しようという気持ちは失せる、否、そんな気持ちは初めから私の中に存在しない。
 肺の中の空気が足りなくなってきて、金造さんの胸を押すと、彼は素直に身体を離した。折角落ち着いていた私の呼吸は、再び激しくなってしまった。走った時より、身体が熱い。
「金造、さん」
「息せい、息」
「んん」
 金造さんの指が私の唇を拭う。触れられた処からどんどん金造さんに浸食されている。私は一か月ぶりの感覚を、思い出し始めていた。
「そないかいらしい顔してもあかんで、此処虎屋やし」
「あ、でも」
「でも?」
「金造さんの……」
 金造さんの口許が、厭らしく歪んだ。この人は少しサディズムなところが有る。指がそのまま頬を滑った。まるで壊れ物を扱うかのように、私に触れる。でもそれじゃ、物足りなかった。
「金造さんのお部屋は、駄目ですか」
 どうやら全て、彼の思い通りみたいだ。


 目覚めたら見覚えのある天井が見えた。此処は金造さんの部屋だ。ただ私の這入っている布団に彼は居ない。彼が寝ていたはずの私の隣の布団はぐちゃぐちゃに乱されていて、昨日彼が来ていた浴衣が脱ぎ捨ててあった。体温はもう無い。随分前に彼は此処を出たらしい。ただ私には丁寧に、布団が掛けられている。後でお礼を言わなくてはならない。
 布団から這い出ると、私は何も着ていなかった。驚いて少し声が出てしまった。取り急ぎ見つかった下着だけを付け、其処に有る金造さんの浴衣を羽織った。
「……大きい」
 ワンピースどころか、丈が長すぎて引き摺ってしまう。しかし裸で出ていくわけには行かないので仕方がない。本当は金造さんの匂いがするので少しだけわくわくしていた。
 そろそろと襖を開け廊下に出た。今が何時か解らないが、確実に仕事は遅刻だ。昨日が宴会だったからと言って、今日は仕事は休みでは無い筈である。怒られるのを覚悟で、急ぎながら音を立てないよう廊下を走った。虎屋の裏口から入って、着替えよう。
 すると角で、ぶつかった。
 どん! と大きな音がしたが、お互い転びはしなかった。謝罪しようと相手を見ると、見覚えのあるあの──形容しがたい色の髪の──金造さんと同じ瞳。
「レナ! なんでうちに居るん」
「あ、廉造君、あの……」
「こんな朝に──否もう昼やけど──てか、レナその恰好──」
「あ! えっと、えっと、廉造君これは」
 すっかり失念していた。私は今金造さんの浴衣を羽織っているのだ。一応女性の着方をしているがサイズは明らかに男物で、私とは不釣り合いだ。
 如何やら悟ったような廉造君は泣きそうな顔をした。
「レナー! 知っとったけど、知っとったけど俺泣きそうやわ」
「ご、ごめんなさい」
「せめてもの慰めとして一回俺にチュウしてくれへん?」
「は?」
 ええやろ、と廉造君の腕が私を掴もうとした途端、それは別の大きな手によって阻止された。
「お前は何をしとんねんこの阿呆が」
 今度は金造さんと同じ瞳、ではなく、紛れもない金造さんだった。何も言えないで居ると、冗談や、と漏らす廉造君を金造さんが一発殴った。
「いって! 金兄!」
「レナに触んなや」
 ほらさっさと行きぃ、と廉造君を廊下の向こう──金造さんの部屋の方へ押しやった。廉造君は一度私を見たが、ぶつくさ言いながら素直にそっちへ歩いて行った。
「き──金造さん」
「おはよう、レナ」
「あ、おはよう、ございます」
 金造さんは私の髪を軽く撫で、耳元で言った。
「虎子さんには言うといたから今日は一日ウチに居ってええ。お前暫く休んどらんやろ?」
「え、でも」
「ええ言うてるんやからええんや」
 金造さんの指が首筋をなぞる。私は昨日のことを思い出してゾクゾクした。それを感じ取ったのか、金造さんはまた、笑う。そういう表情をするのは止めて欲しい。私の心臓が持たないのだ。
「ほんで俺の部屋から出んなよ。そないな恰好他の男に見られたら堪らんわ」
「……はい……」
 私は結局、何を言われても彼に従うしかないみたいだ。何しろ私が其れを望んでいるのだから。
 金造さんは私の頬に口付けをして、仕事に戻ると言った。如何やら今はお昼休憩らしい。怪我をしないでくださいと言うと、金造さんは振り返って笑った。


そこにある幸福



2013-04-19