時計の針は「6」を少し過ぎたところを指していて、窓の外からは既に光が消えた。りんりんと鳴く虫の声も、段々耳障りなほどになってきた。
 ああ、うるさい。
 そう思って窓を閉めようとしたら、ガラリと、静かに、後ろから引き扉を開く音がした。
「竜宮さん、まだ残ってたんだ」
 振り向くと、ゆるい笑顔を浮かべる男子生徒。奥村雪男が、長いコートを腕に掛けて立っていた。顔に張り付いた笑顔はなんだか疲弊しきっており、私でも彼の疲労に気付ける程だ。
「うん。することなかったから。奥村君は、なんか疲れてるね」
「そんなことないよ」
 彼は首を少し動かして否定したが、目元の隈までは隠しきれない。
「隈すごいけど」
「ちょっと寝不足で」
 其れが嘘であることは明確だった。だけど其れに何か言ったりはしない。彼は私に嘘を吐きに此処に来るのだ。
 扉から一番遠い椅子に腰を下ろすと、彼はこちらへやって来て、隣の椅子にどすんと座った。身体を投げ出すようなその行動はとても奥村くんらしくない。彼は眼鏡を外し眉間に手をやった、まるでくたびれた中年サラリーマンである。
「飲む?」
 鞄から飲みかけのペットボトルを出して、彼に差し出した。奥村くんはありがとうと小さな声で言ってそれを受け取った。いつもの彼なら、他人のペットボトルなど絶対に遠慮するだろう。今日の彼はなにかおかしい。
「なにかあったの?」
 奥村くんは何も答えない。ごくん、と喉の鳴る音が聞こえた。
 しばらくは沈黙が続いた。私が何か言わなきゃと口を開く前に、それを破ったのは彼の方だった。
「今日兄さんを祓魔屋に連れて行ったんだ」
「あああの、喧嘩ばっかりのお兄さん?」
「うんそう、だけど兄さんは人と仲良くなるのが速いから」
「そうなの」
「うん、だから、あんな」
 奥村君はペットボトルを机に置いて俯いた。柔らかそうな、茶に近い黒髪がさらりと流れた。本来在るべき場所に無い眼鏡は、ペットボトルの横で所在無さそうにしている。
「僕ではあんなに時間がかかったのに」
 静かな教室に奥村くんの深い声は響いた。
 奥村くんが何を言っているのかは解らない。「祓魔屋」がなんなのかも「兄さん」が誰かも知らないし、彼が大事に思う「誰か」も解らない。
「うん」
 解らないけど、ただ相槌を打って、彼の中の黒い塊をぶつけられるだけの個体になる。私は彼の話を聞く時間が好きだった。
「しえみさんはきっと兄さんを好きになるだろうな」
「うん」
「きっと兄さんを」
「うん」
 奥村くんは再びペットボトルを手に取って口に付けた。私の代わりに150円の液体が私の欲望を満たしていると思った。疲れた身体に、きっと水分は染み込む。染み込んで染み込んで彼の一部になって不要物を吸い取って、いつかは身体から出ていくのだ。
「奥村くん、好き」
 彼の耳に私の言葉は聞こえていないようだった。
 150円の「私」を、ついに彼は飲み干して、そして眼鏡を掛けた。空になったペットボトルは無残にも床へ落下した。
 奥村くんは立ち上がり、変わったデザインのコートを羽織った。コートのボタンを留めながら彼は小さくありがとうと言った。
「竜宮さんは強いな」
 何も言わない私を置いて、奥村くんはくるりと背を向けた。

 空のペットボトルは、言葉を発することなどできない。

それでも生きた


いたちごっこさまに提出
ありがとうございました!

仕事のストレスはシュラさんが感じ取ってあげられるかもしれないけど、恋愛の愚痴は本当に吐き出す人間が居ないな、との想いから出来上がりました
20121014