龍之介が実家の土蔵から古文書を発見し、冬木の地に降り立ったのはつい先日のことだった。信じるに足らない、荒唐無稽な戯言。だからこそ其れに惹かれて彼がやって来た、この土地。
 ──今回は何時ものスタイルとは変えて、あの変な本に書いてある通りに殺す。
 そうしたら、もしかすると本当に妖怪か悪魔を召喚出来るのかも知れない。そんな期待に胸を躍らせ、龍之介は夜の駅前に居た。
 まずは人間観察だ。声を掛けてきた女を片っ端からやるのも悪くないが、それでは旧態依然、今までと全く同じになってしまう。スタイルを変えるために此処に来たのだから、少し観察しよう──そう考え、恐らく待ち合わせに利用出来るよう設計されたであろう、木の根元の腰掛けられるようになっている部分に座った。
 駅から溢れる、帰宅するサラリーマンや学生を見送って約三時間。少なくとも殺したいほど外見が気に入った人間は居なかった。そうこうしているうちに帰宅ラッシュは過ぎ、駅から出てくるのが学生ではなく酔っ払いが多くなってきた。適当に女を引っかけて今夜は凌ごう、と龍之介が立ち上がりかけた瞬間、彼の真上から鈴の音のような、よく通る声が投げかけられた。
「お兄さん。何で何時間も此処に居るの? 待ち合わせ? デートすっぽかされちゃったの? 可哀想。 代わりにあたしが相手してあげようか?」
「は?」
 可愛らしい声とは裏腹に棘のある言葉が鼻につき、龍之介は眉を顰めて顔を上げた。
 それはそれは造形の整った少女だった。ぱっちりとした大きな瞳を縁取る睫は長く、化粧をしているようには見えないがくるんと上を向いている。顔立ちは龍之介と比べれば幼く、高校生か大学生の一、二年生くらいに見えた。
 ──殺したい。
 綺麗な黒髪を引っ張って吊って、白い肌に剃刀を当てて赤い血が滲むのが見たい。その整った人形のような顔が痛みと恐怖に歪むのが見たい。その可愛らしい子供のような声で、断末魔が聞きたい。
 鮮明に目の前の少女を凌辱するのを想像してから、龍之介はハッと気が付いた。
 ──違う違う。わざわざ冬木に来たのは可愛い女の子を殺すためじゃないんだ。
「お兄さん? 何? あたしが可愛すぎて脳みそショートしちゃったの?」
 どっちかと言うとショートしてるのはお前の脳みそだろう、と言いたかったが間一髪で口を噤んだ。そして何時ものように笑顔を浮かべる。今度はその笑顔で彼女をたぶらかし殺すためではなく、彼女から離れるために。
「──うん、そう。オレ、君みたいな女の子超タイプなんだけど、今はやらなきゃいけないことがあるんだよね。だからお誘いは嬉しいけど」
「…………」
 少女は龍之介の言葉を聞いて拗ねたような表情になり、頬を膨らませた。大変わざとらしいが大変可愛らしい。そして、すとんと龍之介の隣に腰を下ろした。
「……君、俺の話聞いてたかな?」
 龍之介は額に筋が浮かび上がるのを感じた。しかし必死に笑顔を保つ。出来るだけ初っ端から面倒なぞ起こしたくはない。
「お兄さんも断るの? 冬木の人じゃなさそうだったから大丈夫だと思ったのに」
「何でオレが此処の人間じゃないって解ったの?」
「あたし、昨日お兄さんが駅に居たとこ見たの。看板見ながらキョロキョロしてたしずっと携帯弄ってるから、もしかしたら余所の人かなって思ったの。それで……お兄さんかっこいいから、昨日からずっとストーカーしてた!」
「…………」
 危うく龍之介の笑顔が崩れそうになった。「褒めて!」と言わんばかりの表情で言う台詞ではない。龍之介のような人間が他人に<可笑しい>などという感情を抱くのは、それこそ甚だ可笑しいと彼自身も自覚していたが、今彼は思わずにはいられなかった。「この女、頭おかしい」──と。
「うーん──えーっと……取り敢えず一応、ありがとうって言っとくよ」
「うん! いいよいいよ! あたしねー、お兄さんみたいな雰囲気の男の人、だぁいすきなのよ」
「──へぇ」
「ねぇ、やっぱり駄目? あたしの部屋泊めてあげるよ。それか、嫌なら近くにホテルあるし、ていうか寧ろ、あたしがお金払っても良いよ」
「…………」
 龍之介は面倒になってきた。
 ──まぁ、時間はいくらでもある。今夜はこいつでも良いや。
 はぁ、と小さくため息を吐いて、龍之介は立ち上がった。後ろに月があるため、龍之介の陰で少女の顔は見えない。その時、少女は今夜が満月であることに気付いた。
「お兄さん帰っちゃうの?」
「──ううん。今晩だけなら、君に付き合ったげるよ」
「え!」
 少女は弾かれた様に立ち上がった。龍之介から表情は見えないが、弾んだ声から、明らかに喜んでいることが窺える。そして、龍之介が次の言葉を発する前に、少女は龍之介の腕に巻きついた。龍之介はうざったそうに振り払おうとしたが、少女は思いのほか強い力で抱きついていたためそれは叶わなかった。
「満月だと、本当に良いコトあるんだね」
「は? 君ってそういうの信じるタイプ?」
 龍之介はそんなの関係ないだろ、と言おうとしたが、彼女の言葉以上にオカルトな行為をしようとしていた自分に気付き、口を噤んだ。
「うん、信じるタイプ」
 少女は低い位置から龍之介を見上げ、言った。細められた瞳には満月が綺麗に映っており、揺れている。
 異様だった。少女が纏う雰囲気も、執拗に龍之介と今夜を共にしたがる態度も。
 そして龍之介は気付いた。龍之介の腕を強引に取って歩き出す少女の首筋から下に、明らかに他人による引っ掻き傷があることに。


title by るつぼ
20130107→