旧式Mono | ナノ

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 遠い誰かは私に笑いかける。『ねえ頑張ってよ。もう少しだよ。あと少ししたら、追いつけるよ』
 私は首を横に振ってから、力いっぱい叫んだ。『もう痛くて歩けない』
 誰かは言う。何を言ったかは聞き取れない…と。ひどくゆがんだ表情で、ひどく悲しそうに、その人は口を開いて――。




「…ん、」


 朝なのか、夜なのか。そんなことも分からず、私はぼんやりと重いまぶたを開けると、そこには何時もの見慣れた和室の天井が広がっていた。
 まるでフィルターを通して見ていると錯覚しそうなほどにぼやけた視界の中で、私は少しずつ蘇って来る夢について考える。もうひどく遠い世界のことになってしまったけど、これは多分私の小さいときの記憶だと思う。
 迷子になった時だったか、いつだったか。頑張れば思い出せそうな気がするし、頑張っても思い出せないような気もする。だから私はどちらもあきらめて、その代わりにため息をついた。冷たい風がすうっと頭に届いて、いくらか私の目を覚ます。


 体が、とても重い。
 そういえば雲雀恭弥に殴られて気絶したんだっけ…とぼんやりと思い出して、時間を確認しようと体を動かそうとする。だけど布団が有り得ないぐらいに自分に巻きついて、思ったように身動きが取れなかった。…あれ、こんなに殴られたっけ、私。
 そう思いながらとりあえず上半身だけでも起こすと同時に。ズズ、と何かがこすれるような音がして、重みが下半身に移動した。――驚いて、声さえ出なかった。
 反射的に私は自分の下半身部分を見て、私は思考が一瞬停止したのを感じた。……さらさらと気持ちよさそうな黒い髪が、私の腿あたりの布団の上に転がっている


「…雲雀…さ……」

 事の重大さに私の眠気と血の気は引いていき、其れと同時に体温が下がる。
 私が声を出すと、雲雀恭弥は少しだけ眉間に皺を寄せて目を開ける。だけど不機嫌そうに薄く開けられた視線はすぐに閉じられてしまって、声をかけることすら間々ならなかった。雲雀恭弥が、殴るわけでも命令するわけでもなく私の近くにいる理由が分からなくて、私は死を覚悟して彼を呼ぶ。だけど深い眠りに入ってしまったらしい彼は、頑として瞼を上げなかった。……葉の落ちる音で起きるという【設定】じゃなかったっけ。


 部屋の中の空気が、凍えそうなほど冷たい。
 だけど私はセーラー服とカーディガンの姿のままで寝ていたせいか、あまり体への寒さは感じなかった。真冬でもコートを着ずに登校する中高時代の賜物かもしれないけど、意外なまでに顔や首、むき出しの手以外は寒くない。
 対して私の上に乗っている雲雀恭弥は、ワイシャツと、肩にかけた学ランの二枚だけ。見ているこっちが寒くなるかっこうに思わず手を伸ばすと、案の定彼の学ランはとても冷たくなっていた。これじゃあ、また病気になりかねない。…でもこの時期に病気なんてしたら、【原作との違い】がまたさらに広がる。…それだけは、避けたいんだけど。
 先ほどの不機嫌そうな目を思い出して、私は彼の手に触れようとした手を押しとどめる。あの目は、確実に私に対して不快感を示していた。二度目はない。そうおもうと、少しだけ彼を起こすのをためらってしまう。死を覚悟してるつもりなのに、自ら死へは飛び込んでいけないらしい。弱いなあ、と笑うと吐く息が震えた。


 カーディガンを脱いで彼にかけると、彼は少しだけ身じろぎする。触れていることへの不快感は、布団越しだったせいか思ったより感じなかった。
 私は息をつめて彼を見守っていると、視線に気づいたように雲雀恭弥は瞼を押し上げる。切れ長の目がじろりと私をねめつけるように見上げ、体は私の意思とは関係なしにびくりと震えた。彼は首をひねって自分にかかっているカーディガンと私を見比べると、「君に施される気はない」と小さく吐き捨てる。だけど取り除く気も、私の上から退く気もないようで、彼は猫が塀の上でするみたいに大きなあくびをかいた。



「よく寝たね、君」
「……すみません」


 条件反射で謝ってしまう私に、彼は細い目をさらに細める。三白眼なはずの目は黒目が少ししか見えないほど狭められていて、其れはどこかまぶしそうにさえ見えた。射抜くような視線に、私は思わずシーツをつかむ。何故こんなにびくびくしてしまうんだろうと思う反面、何をされるか分からない不安に恐怖を覚える。殺されはしないことは分かるのに、私はどうしてこんな怯えてるんだろう。


「君はいつも、僕をイラつかせる事ばかりを選ぶね。そんなに咬み殺されたいのかい?」
「…」
「ワオ、黙秘でもするつもり?本当に君は僕をムカつかせるのが得意だね」


 白い指がゆっくりと私の方に伸びて、私の首に触れる。ぐ、と力をこめられたそれに、私の眉間は素直にゆがむ。頚動脈に当てられた細い指先はグリグリと私の肌を押し、空気が通る道を圧迫させる。苦しい。涙が出る私を、彼は相変わらずの顔で見下ろしていた。……だけど、殺されない。意識が飛ぶ少し前に指をはずされて、今度は頬にいつセットしたか分からないトンファーを当てられる。ペタペタペタ。冷たい部屋の空気に冷やされたその先は凍りつくほどに冷たくて、噎せこみながらも必死につないでいた呼吸を引きつらせた。「ヒッ」という、悲鳴とも音ともつかない声が暗い部屋に響くと、彼は不快だとでもいうように眉根を寄せる。頬を伝った涙を雲雀恭弥は救い上げると、こぶしを握って手の中で握りつぶした。



「ロータス、なんとかって奴は、君の名前なの?」

 起き上がった直後で乱雑になった黒髪が彼の顔にかかっていて、その表情は部屋の暗さに溶け込んでいて分からない。髪に隠されていない側の表情にも、感情の一切を映し込ませてはいないから、どっちだって同じだったかもしれない。
 ふるふると首を横に振る私に、彼は質問を変えた。


「別の世界って何?」
「…」
「黙秘権はないって、学んだ方がいいと思うよ」


 ペタペタと私の頬に当たっていたトンファーが瞬時に引かれ、一瞬のうちに私の頬にめり込む。ただ、雲雀恭弥のもう片方の手によって体をつかまれているため、吹っ飛びはしなかった。目の前が夜だというのに一瞬白くなったけど、すぐに元の風景に戻る。気絶してしまえばよかったのにと思ったけど、おきてもこの繰り返しだと思うとそうも思えなくなってしまう。本当に、私は学習能力がない。


「…私にも、分からな、いんで、す」


 左頬に感じる鈍痛にあえぎながら、私は何とか声を絞り出す。私だって、分からなかった。紙で構成された世界が、如何してこんな風に展開されているかが。如何して実体を持って、声優さんさんの声を持って生きて動き回っているかが。
 私の言葉にうそがないと分かったのか、彼はつまらなそうに「ふぅん」と吐き捨てて、トンファーを床に転がす。一体いくつ仕込みがされているのか、ゴツッという余りにも重い音に私の体は震える。彼の指先が私の首を這い後頭部へ回りながら、私の短くした髪をかき乱す。どん、と額を強く追われ、私は布団の上にドン、と横たわってしまう。シーツを持った彼に布団を押し付けられて窒息する恐怖を抱くと同時に、彼は私の体に布団を掛けた。呆気にとられた私に、彼は相変わらず感情が捉えづらい表情を浮かべていた。


「シーツを血で汚したくないから」


 彼はそれだけいうと、再び私の布団を枕に寝そべる。どうやらまた、振り出しに戻ってしまったらしい。
 「ごめんなさい」と震えそうな声でもう一度言うと、彼は不機嫌そうに「馬鹿の一つ覚えみたいだね」と零す。機嫌を如何して損ねてしまったのかいまいち分からない私は、『謝罪言葉』以外の言葉を考えようとするけれど、いい言葉か思いつかずに結局止めてしまう。
 静まり返った夜の部屋は冷える一方で、何となく彼は寒くないだろうかと考える。頬の痛みは未だに続いているのに、相手の心配をするなんて随分と痛みに慣れてしまったらしい。



「……逃げたかと思ったよ」

 ぽつりと、彼は寝ぼけたような声でそうつぶやく。半分寝ぼけ眼だった私は少しだけ覚醒して、彼のことばを考える。逃げたかと思った?

「…逃げませ、んよ」
 というか、逃げれないのだけど。私はそういうと、彼はうつらうつらした口調で「家の明かりが、ついていなかった」とつぶやいたのを最後に、すうと寝息を立てた。何時かは分からないけど、とにかく雲雀恭弥の起きている時間ではなさそうだから不思議ではない。…だけど、もう少しだけ場所を選んで寝てほしい。いつ起こしてしまうか不安で、私が寝れない。


「…明かり…か」


 そういえばボーっとしてたから気づかなかったけど、たしかに正気に戻る一瞬前、勢いよくドアが開く音がした気がする。やけに不機嫌だったのも、すぐに殴ったのも、きっと逃げたと思ってイラついて、肩透かしを食らって更にイラついた……ってところかもしれない。こんな風に勢いよく捜されるのを見ては、更に逃げる気がなくなる。逃げたと確認したと同時にイラつくなんて、相当彼は小動物(と認識しているもの)に対し独占欲が強いらしい。


 ――『私』じゃなくて、『小動物』に対して。
 そう何度も自分に言い聞かせて、混乱しそうになる自分を自制させる。執着しているのが『人間』だと、私にとってはかなり都合が悪い。でも『小動物』になら、話は違ってくる。彼は原作でもヒバードを気に掛けていたし、逃げて追いかけるぐらい何も変わっていない。――原作を変えてはいないし、白蘭の言いなりになったことにもならない。違う。まだ、大丈夫だ。


 何度も何度も自分に言い聞かせてから、チェルベッロのことを思い出す。彼女らは私を殺すのだといった。――彼女らは物語に障害をもたらすと判断したものを排除し、速やかに『結論』へ持っていく白血球のような存在なのかもしれない。だとしたら、私はあそこで殺されておけばよかったんだろう。本当に、私は学習能力がないなと自嘲した。
 死んでしまうのが一番いい解決方法なのに、私は命を投げ出すことができない。物語を変えて多くの人を殺してしまう悪者にはなりたくないくせに、自分がいたい思いをするのは何よりも怖い。守るなんておこがましい、守られるしか能のない、この世界の異物(ゴミ)。



 次第にまどろんできた世界の中で、私は何度も「…強くならなきゃ」と繰り返す。
 この世界を守るには。私の偽善的な心守るためには、強くならなければいけない。ただ、強くなった先に何が待っているのかと言えば、私の死以外何者もないんだけど。


『死んじゃ駄目だよ』と、誰かが言った言葉は、もはや夢の中で聞いたのか誰かが耳元で言ったのかさえ分からなかった。ただ何となく覚えている夢は、私が立っている黒い世界で「死のう」とつぶやいて、白い空から「生きてよ」、と。まるで懇願するように繰り返される夢だった。
(09/09/20)


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