旧式Mono | ナノ

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竦んだ足は立つことも出来ず、縮み上がった喉では叫ぶことも叶わなかった。



頭の中がまるで夜の闇に飲まれたように黒く塗りつぶされ、私は上手くものを考えることが出来なくなっていた。
まるで、自分の姿も見えない閉塞感だけが漂う暗闇の中で、四つんばいになりながらの心許ない暗中模索しているみたいだった。言いようの無い恐怖が、体の中を侵食する。

強くなってきたと思っていた私の精神は、どうやらにわか仕込みのものだったらしい。現に私は今、かつて彼の殺されたスズメのように震えていた。

「逃げなくちゃいけない」
「殺される」
「叫べば誰か来てくれるかも」
「逃げなくちゃ」
「風紀委員の人がさっきまで」
「殺される!」

混沌とした思考はガリガリと音を立てて私の中で渦巻き、私の冷静さを削っていく。


「いや……や、」


痛くも無い首筋に熱が孕んで、流れても居ない血が私の脳裏によぎる。
何で。如何して。何で、何で、痛い、イタイ、イタイ、何処が?
呼吸が荒くなって、動悸が激しくなる。手のひらを見ると何もついていないのに、そこには赤色が付いているような、そんな錯覚。
錯覚だと理解している私。恐怖している私。ソレでもどちらが私の体を支配しているかと問われれば、ソレは間違いなく後者。

白蘭と望みもしない出会いをした神社での記憶。
樹に空いた弾痕の穴。掠める銃弾。引き裂かれるような熱。痛み。血。赤色。血。暗紅色。血、血、血!


「や、め……」


バズーカーによる浮遊感。黒い学ラン。銀色。痛み。痛み。痛み。苦しみ、痛み。
叫んだって止まない直接的な痛み。血。圧迫感。恐怖。戦慄。痛み。殺意、痛み!

そんなものがやってくるような気がして、私は必死に彼の手を振りほどこうともがく。
だけど大人な彼の腕は振りほどくどころか、ピクリとも動かない。私の頬はいつの間にか涙で濡れ、視界は歪みきっていた。


「ナマエちゃん」
「う……やっ、嫌…っ」



分かっていた。こんなことをしてもしなくても、二度も同じ経験はしないことぐらい。そんなこと、分かっていた。
でも、怖かった。どうしようもないぐらい、怖かった。
向こうの世界の日常生活ではあまり感じたことの無い、身近に感じる『死への恐怖』。事件があっても、どこか自分には降りかからないと思ってる。自分は安全だという、精神的自己防衛。ソレが初めて崩された、神社の記憶。
よく強姦された人が男の人に触れられただけでパニックに陥るといわれていたけど、このことなのかと、そう思った。恐怖は大丈夫だと思えるほどに時がたっても。諦めた振りをしていても、しっかりと体に、記憶に、刻み込まれている。

私は泣き喚きながら、もういっそ殺してくれればいいのにと思っていた。
怖い。死ぬのが、痛いのが、怖い。もういっそ、死んですっきりしたいと、矛盾した思いを抱くほどに。



「ハハ。相当嫌われちゃったみたいだね」


白蘭はそう言って私の手を捻り上げると、10年前の彼がしたときより強く、私を壁にたたきつけた。
彼の片手に拘束された私の両手首は頭の上の壁に押さえつけられ、もう片方の手で俯いていた私の顎を持ち上げる。
強制的に上を向かされた私の唇に、冷たい唇が重なる。暴れれば暴れるほど深くなっていくそれに、私は後頭部の痛みを忘れるほどに暴れた。
ジリ、ジリ、ジリッと、コンクリートで出来た壁に、短い髪の毛がにじる様に何度も何度もこすり付けられ、頭皮にすれるような痛みを感じる。蹂躙という言葉が似合うほどに荒々しい其れは、恐怖以外の何者でもない。まるで窒息死させるのが目的かと疑うほどの時間、私は自由を失っていた。唇を離される段階になると、私の視界はもう開いていても意味を成さないほど、涙でぐしゃぐしゃに歪みきっていた。
瞬き一つすると、目に溜まっていた大量の涙は再び頬を伝う。なのに直ぐに私の目には、新しい涙が溜まっていた。



「相変わらず可愛いねー。ナマエちゃんの怯えた顔は」


おどけたようにいう彼はそう言って笑うと、私の頬の涙を薄い舌で舐め取る。
気持ち悪い感覚に思わず瞼を強く瞑ると、彼の舌は這い上がり、私の瞼の涙まで攫っていく。「しょっぱいなあ」と笑う彼に、私はもう拒絶の言葉を口にすることも出来なかった。


「5分以上ここに居てもいいんだけど。昔の僕が嗅ぎ付けると厄介だからさ。何時もは監視するだけで終わっちゃうけど、今日は運がいいよかったみたい」


彼はそれだけ言うと、嗚呼もう5分たっちゃうな、とつまらなそうに呟いて、笑う。
彼に持っていかれたはずの涙は枯れる事を忘れたように次から次へとあふれ出して、私の頬をぬらしていく。「泣き虫なのは、やっぱり昔も未来も変わんないね」と彼は呟くと、もう一度唇を合わせようとして…ふと後ろを向いた。


「…ああ、ボンゴレのお出ましか。残念だね、ナマエちゃん。さよならみたい。今の僕を捕まらせるわけには行かないからさ」


彼はそう言うと、私の体から手を離すや否や、壁の凹凸に足をかけて向こう側へと降り立った。
同時に、また奇妙な音がしたけど、私はもう声を上げることも出来なかった。
ずるずると壁に背中を押し付けながら地面にへたり込む私の意識は既に朦朧としていて、路地の出口から出る黒い人間相手に逃げることも出来なかった。


黒いスーツを着たその人は私に何か話しかけるけど、意識を手放そうとしている私には、彼の言葉は理解できない。
ただその人は風紀委員の声のように荒々しくなく、何処となく優しさを感じる気がした。

恐怖に未だ囚われる私の意識は「逃げられない」のだと、ソレだけを思い、その言葉だけを私の記憶に刻み付けていく。逃げられない。黒からも、白からも。


「…ぃ」


帰りたい。あの世界に。家に。帰りたい。
そう思っていたら、生暖かい涙がまた一筋、頬を伝う。まるで帰れないことを知っているみたいに、私は泣いていた。

白ずむ意識の中、突然目の前が黒く染まる。…でも、白よりかずっといい。
そう思いながら、私は今度こそ完璧に意識を手放した。
(08/12/31)


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