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何かが壊れる、音がした気がした。
恐る恐る振り返ると、そこには歪みきった笑みを浮かべている、見覚えのある男と視線が絡む。
私が口を開くその前、彼との至近距離に体が拒否反応を示す、その一瞬前に。彼は私に着せられていたセーラーの後ろ襟の部分を鷲掴みにすると、グッと上に持ち上げる。ずる、と脱ぎかけるセーラー服は首に引っかかり、私は苦しさに息をつめる。彼はそんな私にかまいもせずに、後方に投げ捨てた。
骸から離れたものの、私は頭を強くぶつけて悶絶する。視界の端で六道骸が、酷く驚いたような表情を浮かべていた。
「逃げた罰だよ」
無機質で平坦な声で、雲雀恭弥は呟く。
私はあまりの痛みに涙を浮かべながら、何とか縛られた足で勢いをつけるように捻って、体勢を元に戻す。
逃げた罰。と、ガンガンする頭の中で反芻させる。別に私は逃げたわけではなく、どちらかといえば誘拐されたといったほうが正しい。…だけど、結果的に。あくまで雲雀恭弥側から見れば、結果的には逃げたことにはなる…らしい。
私は小さくごめんなさい、と呟く様に言うと、彼は「帰ったら咬み殺すから」と、低い声で吐き捨てた。
私と雲雀恭弥のやり取りを六道骸は呆然と傍観していた。
しかし、私たちの会話が終わったと悟ると、彼は堪えきれない、というように不気味な笑い声を零した。雲雀恭弥の眉間のしわが、くっきりと深いものに変わったのが分かった。ジャキッと、片手に残ったトンファーが、牙をむく。
「意外ですね、雲雀恭弥。貴方は、その子のことを大切に思ってはいないのですか?」
「誰?君。…僕が僕のものをどう扱おうと、君には関係ない」
雲雀恭弥の言葉に、骸は肩をすくめる。
大げさで白々しい動作に、私と、それに雲雀恭弥も同じものを感じたらしい。白々しい動作が生むのは、馬鹿にされたような屈辱感と、ソレに伴う怒りだけだ。
「…おやおや。彼女が一生懸命貴方を守ろうとしていたのに、随分な言葉ですね」
「僕はあんな脆弱動物に守られた覚えなんて無いよ」
「クフフ…これは、完全に貴女の片思いですねえ、ロータスイーター?」
「…私は、そんな名前じゃないよ、六道骸」
ロータスイーター。その言葉を聴いた瞬間、雲雀恭弥は目を見開いて私を見た。
まるで『僕の知らないことを彼には教えたの』という目に、私は思わず弁解するように、六道骸に言う。彼は「僕は名前を知りませんからね」と飄々と呟くと、片手でトンファーの片割れを拾い、ソファーに腰掛けた。
「…まあ、この状況は僕たちにとっては有利ですがね。貴方が、貴方が言うところの猫に仕打ちをすればするほど、僕たちは猫を奪いやすくなる」
「僕のものを、二度も奪えると思っているの?」
「クフフフフ、猫にだって感情はあるんですよ、雲雀恭弥」
ですよね?と六道骸に問われると同時に、雲雀恭弥が鋭い視線で私を射抜く。
……私としては、どちらについても、同じこと。…いや、寧ろ六道骸と共に居たほうが、私は安全で居られるのだろう。
この後すぐに骸たちは復讐者に連れて行かれてしまうし、後で会うことになる凪は女の子だから、それなりの扱いはしてもらえる。
犬や千種だって、とっつきにくくはあるけれど、夕食の時はなんだかんだで優しかった。すぐには無理だけど、仲良くやっていけるかもしれない。
……じゃあ、雲雀恭弥は?
そう問われてしまえば、私はすぐに答えを出せない。
無いんだ。雲雀恭弥と居て、私は何かを守れて、私は幸せになれるという自信が。この世界の大前提であるストーリーを守る自信が。――ミルフィオーレの白蘭が言った、“雲雀恭弥とかかわり、何らかの変化をさせる”ということを、しない方法が、分からない。
僅かに迷いを見せた私に、六道骸は愉快そうに笑う。
雲雀恭弥はくっきりと眉間にしわを寄せると、私から目をそらした。私は胸に小さな罪悪感を感じ、思わず下唇を噛み締める。なんでこんなに痛いんだろう。私のほうを振り向かない雲雀恭弥に、何故見捨てられたような寂しさを感じなければならないのだろう。意味が、分からない。
「君に選択肢なんて無いよ」
抑揚の無い声で、ぽつり、と雲雀恭弥は呟くようにそういった。
私がその意味を理解する前に、雲雀恭弥は私に近づき、左手のトンファーの棘で、私の足のロープをちぎる。一緒に巻き込まれた靴下と足首の皮が裂け、じわじわと赤く染めていき、私は痛みに表情をゆがめた。痛いけれど、これで自由になったのは確かだ。
お礼を言おうと顔を見上げると、雲雀恭弥は相変わらずの無表情で、私を見下ろしていた。す、と細められた瞳に、私は言うべき言葉を忘れて後ずさる。
彼はそんな私に気にも止めず、同じような動作で手首の縄も引きちぎると、ふと気づいたように私の手の甲の傷に目をやる。
「何、これ」
とたんに色づいた声は、不機嫌な声だった。
「もう、君のものじゃないということですよ」
と、背後から骸が、何が可笑しいのか。笑いながら、彼の呟きに答える。
「……名前入りとでも言いたいの?悪趣味だね、君」
「年頃の女性を猫呼ばわりする貴方に言われたくないですね、雲雀恭弥」
「…まあ、いいや。少し早く、咬み殺せばいいだけだ」
フッと雲雀恭弥は私を振り返ると、左手を振り上げ、一瞬のうちに振り下ろす。
刹那、手の甲に熱が走ったかと思えば、私はあまりの衝撃に目を見開く。一瞬遅れてきた引き裂かれたような痛みが手の甲のみだけには留まらず、腕にまで走る。
「っ、ぅ、ぁ……いっ!」
うずくまった私を、雲雀恭弥はぞんざいに投げ捨てる。
涙で歪む視界で見れば、手の甲のエムはトンファーの無数の棘により付けられた傷にかき消され、エムという形はどこにも見えない。もんどりうつ私に、彼は大げさだよ。と一言呟くと、「ソレぐらいにしといてあげる」と、付け加えた。
「貴方は、その娘の価値を知らないのですね」
僅かに怒りを帯びた調子の声が聞こえ、私は床につけていた頬を上げる。
視界の隅っこに、六道骸が居た。……しかし、その顔は、紙面でも画面でも、見たことの無いような、そんな表情だった。
彼は――静かに。本当に静かに、怒っているみたいな表情を浮かべていた。
「価値…?」
彼の怒りを感じ取りながらも怪訝そうに、雲雀恭弥は問い返す。
「強いわけでもない弱い猫に、価値なんか無いよ」
きっぱりとした物言いに、骸は静かに三叉槍を取り出し、片方のトンファーを雲雀恭弥のほうへと投げる。
気をつけて、と雲雀恭弥に言いたくても、ジンジンと体中にいきわたる熱に唇が震え、うまく言葉にならなかった。
「自らの無知を知らぬ人間ほど、愚かな者は居ない…ですかね」
「勝手に言ってなよ。君はここで、咬み殺すから」
彼は下に投げられたトンファーを拾い上げると、私のほうを向く。
そして、最初に投げ捨てた時と同様に私の後ろ襟を掴んで立たせると、抑揚の無い声で、呟いた。
「ここに来る前に敵は片付けて置いたよ。君は邪魔だから、一人で帰って」
寄り道でもしたら、殺すからね。
彼はそういうと、私を強く、強く、突き飛ばした。
(08/10/25)
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