旧式Mono | ナノ

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ふわりと暖かいものが私を包んだ様な気がして、私はいつの間にか閉じていた目蓋を押し上げた。

腕を掴まれていたため世界史の勉強も出来ず。そもそもこの世界にいる以上大学受験の勉強をする意味など無いことを悟ったため、私は彼の横で雲雀恭弥の観察会へと移動。しかし風邪らしい雲雀恭弥を暖めるためにつけた暖房の暖かさにやられ、いつの間にか眠っていたらしい。

ベットに突っ伏したまま寝てしまった私は、なぜかベットの上で寝ていた。そして気づけば、腕を包んでいた他人の体温は消えている。
顔を上げるとそこは空っぽで、慌てて体を起こすと肩から毛布がパサリと落ちた。――あれ、こんなのかけたっけ?



暖かい布団を彼のベットに戻して部屋を出ると、リビングから物音に体がビクッと反応した。恐る恐るリビングに顔を出すと、彼はソファーに座って何かの書類を見ていた。真剣に目を通しているためか、私の存在に気づいては居ないらしい。私が彼の横に立つと、彼はようやく私を見上げた。

ローテーブルの上には乱雑に広げられた書類。そして空っぽになった…先ほどおかゆを作るのに使った小さな土鍋。
少しも残さすに食べてくれたらしい。しかも、切っておいたりんごを入れた皿も空になってそこにあり、私は少しだけ安堵した。食欲が戻れば、後の回復は早いだろう。
表情を緩めた私に、雲雀恭弥は僅かに片眉を上げ、さも意外だという顔をする。私は彼の表情の意図が分からずに、首をかしげた。


「…あの、片付けても」
「いいよ」


彼の了解を得て、私は空になった皿の類を片付ける。
ザアア、という音とともに、冷たくなった水が蛇口から零れ落ちる。私は軽く腕まくりをすると、その水の中に手を突っ込んだ。


あまりの冷たさに、未だ半分寝ていた脳が一気に覚醒する。私が完全に目が覚める頃には、蛇口の水は温かいものへと変わっていた。彼はしばらく書類に目を落としていたが、水の音が気になるのかこちらを見て、すぐに顔をそらす。…なんだというのだ。そんな、恋に恋する女子中学生みたいな真似は彼には似合わなすぎて、ついつい彼を見てしまう。

私が見ていることを知った彼はぷいっと顔を背ける。だけど何か言いたいことがあるように、不自然に口を開いては、欠伸をするわけでもなく閉じられる。ここまでくると、彼に対する恐怖心が、少しだけ薄れてしまう。


「あの、」


丁度洗い物が終わり、緑茶を彼に届けがてらにさりげなく彼に問う。

雲雀恭弥は表情を変えないで私の持ってきたお茶を一瞥すると、書類を持っていない左手で取って少し飲んだ。特に不味いわけでも美味いわけでもない緑茶に彼は眉根を寄せて、それからため息をつく。疲れたような彼のため息を聞いたのは、これが初めてだった。



まず、私はこの世界に来てからずっと、【最強最悪】の人間だというイメージを植え付けられてきたのだ。彼の弱ったところや驚いたところなんて思い出せない。…いや、正確に言えば貼り付けたような紙面上の表情しか思い出せない。

私は彼の言葉が出るのが長引きそうだということをなんとなく察して、彼の向い側に座る。冷たいソファーが、足の熱を奪っていく。部屋が暖まっていないせいか、冷え性の私にはきつい温度だ。「とりあえず、暖かい部屋に戻りませんか?」というと、彼は伏せ目がちだった瞳を押し上げて私を見た。


「…君は」彼が、小さく声を零す。
「……やっぱ、いい」


随分と一方的な自己完結だ。
だけど、中途半端に切られた言葉の続きは、湧き上がった好奇心を増幅させる効果しかない。だけどこれ以上追求したら殴られて殺されかねない。
私は少し考えて、和室に戻ろうと立ち上がる。彼は書類から目を離して、私を見る。また何かを言いかけた気がしたのは気のせいだったんだろうか。
何も言わない私に対し不満を感じたのか、彼は不機嫌そうに眉根を寄せる。私は慌てて言葉を探した。


「あの、何かあるなら、気軽にいってください。不味かったとか…その、」


出て行って欲しいとか。

ここはあなたの家なんですし。と言った私に、彼は不機嫌そうな顔をもっと酷いものにした。どうやら地雷を踏んだらしい。
焦る私に、彼は低い声で「こっちにきなよ」と有無を言わせない声音で呟く。怖いと思うのと同時に、私は理不尽だなとも思った。


笑いのつぼが分からない人よりも、怒りのポイントが分からない方が始末が悪い。

死ぬ覚悟で彼の横に座ると、彼は私の体をなぜか上から下まで嘗め回した挙句、不満げな表情を浮かべた。そしてかなり戸惑った私の腕をつかむと、ずるずると部屋へと連行しはじめる。…この人は、どうして人を連れて行きたい時引きずるという手段しかとらないのだろう。言えば、怖いから従うのに。

「あの?」と聞けば、「君が戻れっていったんでしょ」と、不機嫌そうな文句。まるで、というより子どもそのものだと思った。


彼が何をしたいのか全く見えない私は、彼の力の成すがままに中心に敷かれた絨毯の上に横向きに倒れこむ。痛い。

うずくまった私を彼は綺麗に無視し、無言のままウエストのへこみのラインに頭を乗せる。……何が起こってるの、これ。


「ひ、雲雀恭弥さん?」
「なに」


彼はまるで何事もなかったかのように、飄々とそんな言葉を呟く。あまりに普通に返されたせいか、言おうとした言葉を全部忘れてしまった。

あまりのことにさすがに焦ったけど、驚くほど色気染みた雰囲気がないのに気付き焦りはすぐに収まった。大型犬の腹を枕に子どもが寝ているという映像をどこかで見たことがあるせいかもしれないけど、これは完全にペット扱いだ。いや、むしろ物程度にしか思われていない可能性もある。


ウエスト部分に感じる彼の人間らしい平常の体温に、少しだけ気持ち悪さを感じる。でもだからといって彼にやめてと言える訳もなく、私は潔く諦めた。殴られるくらいなら我慢したほうがましだ。


体勢が気に入らなかったのか、彼は急に頭を動かし仰向けになる。腹部が圧迫されて少し苦しいけど、やっぱり私は黙っているしかない。仰向けになったことで彼の端正な横顔が前髪の隙間に見え隠れした。何を考えてるんだろうと、少しだけ思った。



雲雀恭弥という一人の人間は、想像以上に謎が多い。

心で何かを思っているんだろうけれど、口にも表情も出ないから何も考えていないように見える。だから、こんな風にされていても『襲われる!?』というおかしな考えを抱かないですむのかもしれない。…別に、だからなんだと言う訳ではないんだけど。



「ねえ」
私に向かって、唐突に彼が口を開いた。彼が口を開くのは何時も唐突だと思う。だから私はその度にビクビクしてしまう。

「…ど、どうかしましたか」と躊躇いがちに問い返しても、返事はすぐに返ってこなかった。静かに、息を吐く音が聞こえる。ため息のような彼の息に、私はまたビクリと体を震わせた。


「君は、帰る場所があるの?」
「…は」

予想外の言葉に私は思わず身を起こそうとしてしたけど、彼の頭のせいでそれは叶わなかった。
ならばと必死に首を捻ってその質問の意味を探ろうとする。だけど黒い髪に邪魔をされた表情は、いつも以上に読むのが難しかった。

どちらで答えればいいのだろう。というか、私はどちらを答えるべきなのだろう。


帰るべき場所はある。でもそれは、私の居るべき世界での事だ。
この世界の場合なら、無いと言うのが真だ。あるはずが無い。そもそも私の存在は、ここには無いはずだったんだから。


そもそも私は彼のなかでは10年前に『失踪』したことになっているはず。ということは、私の答えと彼の持つ情報が矛盾する可能性がある。……でももっと考えれば、私の素性を調べた彼が知らないということは『いない』可能性のほうが高いのだろう。でも知らないということは、『嘘』を付いて出ていけるかもしれないということで。

少しだけ考えて、少しだけ迷って私は口を開く。まだ決まっていないのに、息を吸う。乾燥した生ぬるい温度が私の中に入り込んで、私の喉はすこしだけ乾いた。


「ない、です。多分…もう」


かすれた声で出た言葉は、否定の言葉。
――ああ、どうして否定する必要があった?出ていけるかもしれなかったのに。肯定することが最善の策だったのに。それなのに。


口から出た言葉が本当だとは思いたくなくて、ぎゅうと手を握り締めながら何だか分からない胸の痛みに耐える。



甘えだと思った。

彼なら助けてくれるかもしれないという期待。
都合のいい時だけ弱さをアピールすることで、受け入れられようとする甘え。自分自身の都合のよさに、吐き気がした。ここの部屋から出て行ったときの勢いは、一体何処に行ってしまったというのだろう。

ぐ、と歯を食いしばると、鈍い痛みと共に鉄の味が口内に広がる。思わず涙目になった私の拳に、気が付けば彼の人差し指が僅かに触れていた。


「ふうん」


出て行けとも言わず、だからといって居ろと言う訳でもない。ただ単純に吐き出された、曖昧な相槌。
彼の爪先が私の力の入った手の甲を掠めて、私の手に淡い赤い線を描く。予想外の彼の行動に、力を入れていた唇が緩んだ。少しだけ切れた部分から、唾液でぬれた下唇全体へと血の味が広がった。


「苗字ナマエ」


僅かに触れるように掠めた指先を再び元に位置に戻しながら、彼は呟くように言う。
一瞬だけ触れては離れ、その度に私の手の甲には線が描かれる。私には理解できない行動だった。気づけば、手の甲はみみず腫れで一杯になっていた。


「はい」

そう呟くと、彼は顔を傾けて、私と視線を絡ませる。
「まるで黒猫だね」にこりともしない、鉄面皮とも言っても過言ではない彼らしい表情のままでそう呟くと、手を延ばして私の髪の毛に触れた。

彼の言葉通り捨て猫でも撫でるような手つきに、私はどうしたらいいかわからずとりあえず彼を見返す。



雲雀恭弥は静かに私に視線をやると、ゆっくりと目を閉じた。置き去りにされた私はただ、彼が次に目を覚ますまで動かずにいることしかできない。
彼が言うように、私は完全に彼の猫(ペット)と化していた。なんて勝手なんだろうと思いながらも、生活の基盤である主人の言うことにはある程度は従ってしまう。そしてそれが、『排泄はトイレで』『拾い食いをしない』というように習慣に変わっていくんだと思った。でもその習慣がついてしまえば、猫(私)は確実に主人(雲雀恭弥)から逃げられなくなってしまうだろう。


逃げなくちゃ。そう思うと同時に、寝息をたてていた彼が小さく言葉を紡ぐ。あまりのタイミングに、私の肩は怯えるように大きく震えた。


「逃げたら、殺すよ」

逃げたい。でも逃げられない。彼に猫扱いをされた時点で、もう何もかもが手遅れのような気がした。
(09/10/10)


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