旧式Mono | ナノ

(21/63)

規則的な秒針の音と共に、ドアごしでも聞こえていた荒い息が少しずつ穏やかになって消えていく。


眠ったと分かって何とか持ち直した私は、壁の力を借りて立ってよろけながらキッチンに移動する。キッチンにはフレンチトースト2人分がぽつんと置かれていた。私は少し迷って、それは私の朝食と昼食にすることに決めた。

まずは鍋を出して、おかゆの準備をする。……お湯の分量はなれた鍋じゃないからわからないけど、まあこれぐらいだろうか。手探り作業でとりあえず鍋を火にかけると、今度は薬の捜索。だけどこれは案外簡単に見つかって、私は冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターと一緒に、先に彼の部屋に届けておいた。
音で起きてしまった彼に「君に施されるなんて死んだ方がマシだよ」と散々嫌味を言われたけれど、何だかんだベットには居てくれるので安心した。



とりあえず彼に薬を飲んでいただき、私は彼が作ったフレンチトーストを食べながら、おかゆを待つ。
ちょっと冒険心で野菜等を入れちゃったから、数分に一回の割合で様子を見ているから、食べた心地がしない。ようやく完成して彼の様子を見に行った時には、すでに一時間はたっていて。ベットの上には、子どものようにすやすやと眠る男子の姿しか居なかった。

私はそっと氷水の入った桶を抱えながら室内に入り、彼の横たわるベットの横に座る。体調がよっぽど悪いのか、多少の音を立てても起きる気配はしない。私は彼の額に絞ったタオルを乗せてやると、彼は小さく呻いた。



こうしてみると、ただの男子なんだけどな。

そんな風に思いながら、私は彼の顔を覗き込む。長い黒いまつげが、彼の息遣いに合わせて上下する。軽視していたけど、雲雀人気の理由が今だけならなんとなく理解できる気がする。
というかそもそも女子は、如何して『普段はクールで残虐な人間だが、自分だけには優しい』というシチュエーションに弱いのだろう。

彼の夢小説の数々を思い出して、思わずため息をついた。――もし向こうの世界に戻るようなことがあっても、私はもう二度と彼の夢小説は読まない。読みたくない。



私は彼から部屋に目を移すと、床に散らばっている数冊の本に気づいた。
……ああ、これ。私が雲雀恭弥に吹っ飛ばされて、本棚にぶつかった時に落ちた本……。放置しておけば、怒られてしまうかもしれない。慌てて拾い上げながら、何の気なしに表紙の文字を追う。


『世界史B』『数学V・C』『物理』
「……」


其れは中学生の教科書ではなく高校の其れであることに、多少のショックを感じる。この人は年齢不詳だという設定らしいけど、下手をしたら私よりも年上なのかもしれない。そう考えながら、私は世界史の教科書を手に取る。


文系の私には数学も物理も、眠気を誘う催眠効果を生み出すものでしかないが、世界史だけは別だ。
文系の山場でもある、世界史。日本史が重箱の隅を突くような細かい問題形式なのだとしたら、世界史はまさに広く、浅く。

前者は暗記が得意な人間、後者は時代の流れで覚えていくタイプの人間に向いているという言葉を信じて世界史にしたのはいいけれど、結局ボロボロのままだ。私は世界史の教科書を開いて、とりあえず目を通す。しばらく勉強から離れていたせいか、覚えていたはずの言葉は殆ど忘れていた。



――これで受験直前に向こうの世界に帰ったら、浪人生活確定かもしれない。


少しやっておこうかな、と世界史Bの教科書を開く。だけどあまりにも久しぶりなため、思わず時間を忘れて見入ってしまっていた。ふと気づけば私の後ろ髪に不自然なゆれを感じ、ついでに突き刺さるような視線も感じる。やばいと思ったのと声を掛けられたのは、全くの同時だった。



「……興味あるの?」



言葉の意味を理解するまもなく反射的に本を閉じて、謝りながら立ち上がろうとする。其れは私にとっては逃げだったのだけど、見透かされたように右手首を捕まえられ動きを止めさせられた。
視界を下に移動させれば、彼がこちらを見上げていた。怒りなどは感じない、何の色も宿していない彼の瞳。私が一番、彼の考えていることが分からない時の、彼の瞳だ。
こんな瞳をしている時には、私はたいていろくな事が起きない。――昨日も彼がこんな目をしていた時、思わず避けたら命の危機を感じる羽目になった。――そういえばその前も、そんなことがあったような。


「あの、何か…?」
「別に僕は見るなといったわけじゃないよ」

「……でも」
「興味あるんでしょ」


興味あるというか、受験勉強をしたいだけです。
そういおうとしたけれど、つながれている手がむずがゆくて私はおとなしく床に座る。す、と彼の熱い温度の手が離れた。しかし私の短い髪の毛がそんなに気になるんだろうか。私の後ろ髪を、布団から出た彼の指がくるくると弄ぶ。……なんていうか、本気で雲雀恭弥という人間像が掴めない。



どこぞの夢小説のように今の優しい雲雀恭弥なのか、漫画の冷酷だけどたまに優しい雲雀恭弥なのか。若しくは漫画にも夢小説も無い、完全冷酷な雲雀恭弥なのか。

『物語』の定番としてはツンツンしている彼が順を追って優しくなる…というのが定番だけど、こんな風にばらばらな優しさな物語なんて型破りだ。
触れられていると考えればまた悪寒が走りそうで、気を逸らすように慌てて世界史の資料集を開く。適当に開いた場所は丁度、面倒くさいインドの歴史で、思わずため息がでた。


マハーバーラタ、ラーマーヤナといった日本語にはない独特の文字列を持つ名前は、失礼だけど本当に覚えにくい。国だってマウリヤ、クシャーナ、グプタ、ヴァルダナとか文字列が特殊すぎる。というか、その4つ、身分制度のバラモン・クシャトリア、バイシャ・シュードラとかぶってしょうがない。えーっとカースト制度は……と小さな声で悩みだす私に、後ろの彼は唐突に口を開いた。


「君、いくつ」
「18、です」私は彼のほうを見ないまま答えた。言ってから、10年前に『失踪』したはずの子と年齢が食い違ったらどうしようと思った。だけど彼はその話題をすっかり忘れているのか、「ふうん」と零すだけだった。危ない。ボロを出すところだった。


「中学生じゃないんだ」
「…違い、ます」

そう。彼はポツリとそう零すと、私の首筋にあるかさぶたに触れた。痛い。
指の温度で先ほどの唇を思い出し、思わず鳥肌が立つ。彼は無言のまま、首筋に浮かんだ鳥肌をなぞった。気持ち悪い。



「あ、あの。おかゆ…食べますか?さっき作ったんですが、お休み中だったので」
「……今は要らない」


だから、座ってなよ。彼の言葉に、私は体よく逃げる機会を完全に失ってしまう。本当に彼は何を考えているのだろう。私は彼の指先に翻弄されながら、彼のこの行動理由について考えた。こんな状況で勉強に集中できるほど、私は大物じゃない。



病気は人を寂しくする、とは昔から言われている。だからこうして触ってくるのかもしれない。でも正直な所、彼がそんな人間だとは到底思えない。というか、絶対に違うと思う。

でも『私にある種の恋愛感情を抱いている』というのは更に考えにくい。というか、普通にあり得ない。どれぐらいあり得ないのかというと、宇宙にいる生命全部が同時に『幸せ』を感じるほどあり得ない。確率はそれこそ天文学的数字だろう。……やっぱり、寂しいのかな。やっぱりここは、普通に考えて。一応名目上は中学生なんだし。



漫画で見たことはあるけれど、彼は何処と無く子どものような言動、挙動を見せる時がある。そういえば父親、母親の姿もないし、彼は情緒的に不安定になりやすく、人との関わりが苦手な傾向なのかも知れない。
私は首だけを動かして彼を見れば、彼は訝しげに眉をひそめる。何、と問いかけるような怪訝そうな瞳は、まるで不機嫌な子どものそれだ。


「…寝ていたほうがいいですよ、雲雀恭弥さん」
「君に指図される覚えは無いよ」

「…すみません」
「……苗字ナマエだっけ」


彼はそういうと、再び無言になって私の短い襟足を弄る。「はい」と短く返事をしても、彼はふうんと言うだけで後は何も言わない。
なんというか、彼はまるで狼のようだと、そんな風に思った。


逃げようともがけばもがくほど追いかけてきて、爪を立てられ肉をむさぼられる。
だけどその一方、狼に育てられた少女という実話があるように、小さく逃げないものに対してはある種の愛着のようなものを抱く。そんな狼。
逃げなければいいんじゃないのかと、私は彼を見ながら思う。
まあ実際には恐怖が先立って、そんなことできるはずも無いのだけど。彼から離れるような言動、挙動をしなければ、少なくとも傷つくことは無いのかもしれない。――まあ、あくまで『かもしれない』なんだけど。


「何」
「いえ、気になりますか…髪」
「…別に」

彼は髪から手を離し、今度はそっと首に触れる。ゾクッと悪寒が走って鳥肌が立つけど、何とか逃げることは踏みとどまった。
かさぶたの固さと大きさを確かめるように撫でると、唐突に爪を立てる。カリッという音とともに、私の首筋に僅かな痛みが走った。
トロ、と数秒で滴る赤い水滴を彼の指がすくうと、彼は其れを指先でこすり合わせる。ぽろぽろと消しゴムのかすのように落ちていく私の血液。何をしたいのか、私には全く理解できなかった。
指先が綺麗になると、彼はもう一度首に触れる。赤黒い血を彼はぼんやりと見た後、今度は舐めとっていた。
そして彼はくるんと寝返りを打って反対側を向き、寝る姿勢をとってしまう。何がしたいのか、本当に少しも分からなかった。


「おやすみなさい」

挨拶をすませてから、滴る血が買いたてのパーカーのフードに付かないように、指で救ってティッシュを探す。残念なことに雲雀恭弥の部屋にはティッシュはないらしく、仕方なく彼と同じように舐め取った。鉄の味が口の中に広がり、きゅんと唾液が出る。……もしかして、彼は喉が渇いてた?――そういえば熱の時は汗がでるから寝る前に水分補給が必要だったのに。

持ってこよう。そう思って立ち上がろうとした瞬間、手首を強く掴まれた。数秒で寝れる彼のことだからてっきり寝てると思っていたのに、雲雀恭弥は鋭い双眼で私を見上げていた。たじろぐ私に、彼は何も言わずまた目を閉じる。


動くな、ということだろうか。


というか、足音を立てて煩くしてほしくないのかもしれない。私はおとなしく座ると、少しだけ彼を覗き込む。

水、要りませんか?と彼に問いかけても、もう彼は眠りの世界に身をゆだねていて返事は無い。もしかしたら、今も無理に起きたのかもしれない。


おやすみなさい。私はもう一度彼にそう伝えると、世界史の教科書を開く。私の手首を掴んでいた手が緩み、ぽとりと下に落ちる。私はソレを拾い上げて、布団の中に戻すように布団の中に手を入れると、彼は私を腕ごと掴みかかってきた。――病気を辞書で引けば『生体がその形態や生理・精神機能に障害を起こし、苦痛や不快感を伴い、健康な日常生活を営めない状態』という意味が出ているけど、彼はどうやら心までおかしくなったらしい。



もし次に彼が目覚めた時、『健康』な状態だったら確実にかみ殺されるだろうなあ。
そんなことを悶々と思いながらため息を付く。恐怖の対象なはずなのに、無垢そうに見える寝顔のせいかさして恐怖は感じない。



甘い甘い、それこそ恋に恋する作家が書くような夢小説の展開は、望んじゃいないしあり得ないだろう。

トリップした最初から命の危険を感じ、そのほかに色々命の危険に晒されているんだ。そんな妄想を抱けるほど、私は楽観的でも天然でもない。


――だけど、もしこんな瞬間が一秒でもあるとすれば、何とか思いつめずにやっていけるかもしれないな、と何となくそう思った。

何となく、本当に何となくだけど。
(08/10/5)


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