希う | ナノ

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 歩くたびに踵が靴から飛び出てしまい、うまく歩くことができない。それでも何とかたどり着いた花畑は、想像するよりもかなり大きなものだった。



 森のふもとの川の近く。通りすがった人にそう教わった場所は、息をのむほど美しい自然であふれた場所だった。マサラタウンはきっと近代化とは無縁の土地なんだろう。青々とした原生林のような力強い木が立ち並ぶ森に、透明感のある小川が心地よい音を立てて流れている。そしてその横には似た見たことのない赤いピンクが買った花が丘一面に咲き乱れている。初めの印象は、ハイビスカスをとがらせたみたいな形だと思った。けれどよくいると葉の付き方も全然違い、やはりここは私のいた場所とは全然違うところなんだと思い知らされる。


 春の穏やかな日差しがとても気持ちいい。この町に住んでいたら、ピクニックにきてもいいなぁとさえ思える場所だった。観光名所になってもいいような素敵な風景なのに、不思議なことに人が来る様子もポケモンがいる様子もない。まるでここだけは誰も踏み入ってはいけないという雰囲気さえ感じる花畑だった。


「…変な、場所」


 まるで人からもポケモンからも忘れ去られた場所のようで、私は率直な感想を述べてしまう。私のいた場所で言う生き物すべてがポケモンに返還されているのなら、虫ポケモンが沢山いてもいいはずなのに。そう思いながら、花が少しだけよけてある場所に座り込む。いつも名前さんがここに座っていたんだろうか。座り心地はびっくりするほどよくて、砂の形も私の体に張り付くように合っていた。名前さんはここで一体何を考えていたんだろう。そう思いながら横になってみる。すると、少しだけ地面が掘り返された跡があるような場所を見つけた。ほかのところはクローバーのような植物で茶色の地面が見えないのに、そこだけは茶色の地面がむき出しになっている。


 なんだこれは。不思議に思って指先で触れようとすると、不意に地面が陰った。曇ったんだろうかと思うか思わないかの内に、目を開けていられないほどの強風が穏やかな花畑を揺らす。右腕で顔を覆いながらなんとか上空を見ると、そこには見覚えのあるようなフォルムのポケモンが旋回していた。そしてそのポケモンはゆっくり円を描きながら急降下してくると、わずかに地面を振動させてゆっくりと降り立った。背中に乗った私と同じぐらいの年の青年が軽快に降りるのが見える。「レッドさん」と私が呼びかけるのと、彼が「ここにいるとは思わなかった」というのはほぼ同時だった。



「よくグリーンが外出を許したね」

 さすが幼馴染というべきなんだろうか。彼の性格を知り尽くしているレッドさんは、わずかに驚きを見せた様子で肩をすくめる。私はなんとなく、彼がどうやって私が抜け出したかわかっているんじゃないかと思った。


「…ベランダから抜け出しちゃいました。じっとなんかしてられないんです。私は早く、自分の体に戻りたいから」
「……うん、知ってる」


 彼はそれだけ言うと、私の横に座る。そして帽子で表情を隠しながら、「さっきはごめん」と呟くように謝罪した。きっと強く突き放したことだろう。「私もかなり失礼だったので、おあいこです」とお道化てみる。彼は帽子の陰から私を一瞥し、笑った。やはり私と彼女とは違うと思ったんだろう。その笑顔は酷く寂しそうで、見ているこっちの胸まで痛んだ。


「…あの後、グリーンさんに言ってみたんです。レッドさんから聞いたことを」
「……信じなかったでしょ。いつもそうだよ」

「でもグリーンさんの言うことも最もだと思うんです。私にはそんな仲がいい幼馴染がいないからわからないけど、自分の好きな人が異性の部屋で二人っきりで過ごせば嫌だと思います」
「……ああ、あの事か」

「よければ詳しいことを教えてもらえませんか?私のためにも、名前さんのためにも」


 なるべく真剣みが伝わるように、ゆっくり、はっきりと伝えると彼の表情は厳しいものへと変わっていった。きっとすべてを知っているのはグリーンさんではなくこの人だ。彼を見ていると、その思いが少しずつ確信に変わっていく。そしてもう一つの疑問も、はっきりと見えてきたような気がする。これを言っていいものか少しだけ迷って、少しだけ悩んで、やっぱりと口を開く。迷っている時間がないのは彼も同じのように思えた。


「レッドさんは、名前さんのことが好きだったんですね」


 私がそういうと、レッドさんはわずかに目を見開いた。「なんでそう思った?」と穏やかな口調で聞く。否定はしないけれど、肯定もしていない彼の声音は風が吹けば飛んで行ってしまいそうなほど弱弱しいものだった。


「レッドさんはどうして二人がぶつかっているのを知っててグリーンさんに名前さんの気持ちを伝えてあげなかったんだろうって思ったんです。安直な考えだけど、そう考えればなんとなく説明がつくかなって」
「…そう。じゃあどうしてグリーンの言う事より僕の言うことを聞いたの?僕が誤解しているかもしれないだろ」

「レッドさんの目は嘘をついているようにはどうしても思えなかったから。その点はグリーンさんは迷ってるみたいだった。多分怖くて面と向かって聞いたことはないと思ったんです」
「……及第点、かな。半分は正解。でも半分は不正解だ」


 彼はそういうと、帽子を取った。特徴ある髪の毛がピンと自由に跳ねる。太陽の光に当たった彼の髪の毛は部屋の中で見るよりも薄く見える。きれいな色だ。目を奪われる私に、彼は薄く笑みを見せた。やさしげな表情に、私はアルバムで見たレッドさんを思い出す。ああこれが彼の本当の表情なのかと、何となくそう思った。


「僕は別に名前に恋愛感情を抱いていたわけじゃない。…まぁそんな時期もあったけどね。彼女があまりに一途にグリーンのことを思うから、応援したくなったんだ」


 彼は遠くを見るようにそういうと、朝とは別人のような優しく柔らかい表情を見せる。名前さんがこの人に思いを打ち明けるのが何となくわかる気がした。すべてを包み込むような彼の器の大きさが、弱い彼女を惹きつけたんだろう。


「…じゃあどうしてグリーンさんに言ってあげなかったんですか?」
「……それじゃあ、意味がないんだよ。名前が自分で言わなければグリーンは信じない。グリーンは冷静だけど、自分の思いは必ず口にしてきたしそれに伴う行動もしてきた奴だ。名前自身の行動じゃないと、あいつにはきっと届かない。それに、名前自身のためにならない」


 レッドさんはそういうと、私に首を傾げた。「それに君は…苗字は信じられる?人づてに告白されて。嬉しいかもしれないけど、信じることはできないだろ?」そういう彼はどこか寂しそうにしていて、私は反応に困ってしまった。信じられるかと問われれば、答えはノーだ。彼が言う通り嬉しいとは思うけど、告白されるまでは噂程度にしか思わないだろう。

 「名前さんのこと本当に大切に思ってたんですね」と思ったことを口にすると、彼は笑った。「苗字は面白い解釈をするんだね」と口元をおさえ、くすくすと笑う。「その人のためにならない」なんて考えは、薄い関係じゃ絶対に思えない。きっと彼は彼女のことを家族のような愛情をもって見ていたんだろう。――彼女は愛されていた。そう感じると、なんだか胸がすごく痛い。孤独に負けて自殺を図ろうとした人が愛されていたなんて、皮肉以外でもなんでもない。



「正直…名前さんが分からなくなりました」
「どうして?」

「言えばいいじゃないですか。片思いってわけじゃない。好きな相手が自分のことを想ってくれているのを知ってて、なんで言えないんだろう。私には理解できない」


 相手を好きになって、伝える前に相手に思われているなんて物語ならまだしも現実ではすごく幸せなことだ。そんなこと早々あるものじゃない。現実は報われない恋のほうが多いし、どんなに頑張ったって声を張り上げたって伝わらない声もある。そんな中で彼女がどうして言えないのか、私には到底理解ができなかった。

 私の言葉を聞くとレッドさんは酷く寂しそうな顔をした。「君が別人だとしても、その顔でそう言われると複雑だな」と独り言のようにつぶやく。そして考えるように遠くを見ると、ゆっくりと息を吸った。


「それはきっと、名前は僕とグリーンのことを遠い存在だと思っていたからだ」
「…え?」

「僕とグリーンはこう見えても全国に名が通るポケモントレーナーなんだ。自分で言うのもなんだけどファンも多い。名前は割と自虐的な性格だったから、つりあわないっておいめもあったと思うよ」
「…そんなに有名な人だったんですか?」

「僕たちはカントーのチャンピオンになった経験があるからね。…つまり、この地方で一番強いトレーナーってことだよ」
「…すごい」

「いつも名前は寂しそうに笑ってたよ。また遠くに行っちゃうねって」


 彼はそういうと、再び帽子をかぶった。「そんな訳ないのに」誰に向けるわけでもなく呟かれた言葉はとても重く、私は聞かなかったふりをするしかなかった。――そういえば、今日見た夢もそんな夢だったきがする。好きになった人が遠くて遠くて、近づこうとしても追いつけない。疲れてやめたいのに、やめれない。……あれは名前さんの記憶なんだろうか。だとすれば、彼女は何かを努力していたことになる。好きな人との幸せな日々から逃げ出してしまいたくなるくらい辛いこと。それは一体、何だったんだろう。


「…最近、名前さんに変わった様子はありましたか?」
「君はいつも突然だね。…どうして?」

「私、夢を見たんです。好きな人が遠くて、走っても走っても近づけなくて動けなくなるくらい疲れてしまった夢です。…もしこの名前さんの記憶なんだとしたら、きっとそれが原因で壊れちゃったんじゃないかって」
「……最近散歩はしていたみたいだけど、それ以上は分からないな。グリーンなら知ってるかもしれない」

「…じゃあそれはグリーンさんに聞いてみますね。ありがとうございます!」


 彼にお礼を言って立ち上がる。「帰るの?」と問われて頷くと、「送るよ」と彼も立ち上がった。傍にいたリザードンもまた立ち上がり、私の反応をもの珍しそうに見ている。「触っていいですか?」と聞いてみれば「乗ってもいいよ」と言われたので、遠慮なく触ってみた。トカゲのように見える外見ではあるけれど、トカゲのような鱗はない。ただ表面は固く引き締まっていて、なんとなくゾウの背中みたいだと思った。もっともリザードンのほうがつるつるした肌触りで気持ちいいけれど。

 リザードンは怯えずに触る私をめずらしそうに見ていたが、鬱陶しくなったのか振り払う。「乗せてもらってもいいですか?」と聞くと、フンと鼻を鳴らした。彼の主を見てみると笑っているのできっとOKという事なんだろう。お願いしますと頭を下げると、なぜかリザードンに頭をなでられた。何となく嬉しくてその手に触れると、またすぐ振りはらわれてしまったが。


「グリーンの家でいい?」とレッドさんが聞くので、私は素直に首を横に振った。
「行ってみたい場所があるんです」そういう私に彼は少し意外そうな顔をした。


「あまり遠くには行けないよ。グリーンが怒るしね」
「大丈夫、多分近いです」

「へぇ、どこ?」
「トキワの森に行きたいんです。あの湖に、もう一度」






 湖につくと、そこは昨日と変わらない穏やかさで私とレッドさんを迎えてくれた。昨日は見る余裕がなかったけれど、とても美しい景色だと思う。ただ意外と森の奥深くだったようで、自分の足ではとてもじゃないけど来れないと思った。ポケモンの苦手な名前さんが来れる場所とは到底思えない。それはレッドさんも同じ意見だったようで、そんな感じの言葉を道中でぼやいていた。相談役を担っていた彼でも、名前がどうしてこの泉に自殺未遂のようなことをしたかは理解できないらしかった。自殺は半分は成功している。彼女は心だけを、誰にも話すことなく理解されないままこの湖に捨ててしまった。そこに何故異次元の私が収まったのかはわからないけど、彼女は心だけ自殺してしまったのだ。

 正直帰ってくるかはわからないし、彼女が仮に帰ってこれたとして私が元に戻れる確証はない。けれど可能性があるのなら、できることがあるのなら、私はそれにすがってみたい。私だって大切な人たちがいる。こんなわけのわからない場所で一生を過ごすなんて絶対に嫌だ。



「ねぇレッドさん。ここの湖に…名前さんがいると思いますか?」
「…どうかな。僕はいろんな地方を旅して色々な経験をしてきた。だから無いとは言い切れないけど、それは少しおとぎ話すぎる気がする」

「そうですよね。私は夢を見すぎなんでしょうか。何となく、名前さんがここにいる気がするんです」
「君の体は間違いなく名前のものだ。だから持ち主の気味が言うのなら、そうかもしれない」

「…ここは変な場所ですね。あの花畑もそうだったけど、こんなに緑豊かなのにポケモンが一匹もいない」
「この泉と花畑は過去に伝説のポケモンが訪れたことがあるといわれる特別な場所なんだ。花畑はシェイミが作った。そしてここは昔ミュウがいて、水浴びをしたといわれてる。だから絶対に汚れることはないし、干上がることもない。その不思議な現象のせいか、そういう土地にはポケモンがあまり住まないんだ」

 彼はそういうと、湖のそばでしゃがみこんで水をすくって見せる。きらきらと太陽の光に輝くそれは、近くで見ても不純物が一切見えない水道水のような透明感があった。とてもじゃないけど、流れのない湖の水には見えない。特別な力が宿っているというのも、何となく頷ける。だけどどうしてこの湖で命を絶とうとしたんだろう。…もしかしたら命を絶つわけじゃなかったんだろうか。ここで何かをしようとして、結果的に湖に落ちてしまったんだろうか。分からない事が多すぎて、結論が全然見えてこない。だけどこうしている間にも私の体が死んでいくのかもしれない。そう考えると、とても焦ってしまう。どうにかしなきゃ。どうにかしなきゃ。


「…ちょっと探してきていいですか?」

 冷静にいうと、さすがのレッドさんも驚いたのか目を見開いて私を見た。きっと意味が分かったんだろう。何の迷いもなく靴を脱いだ私を、彼の細いけれど引き締まった手が引き止めた。

「死ぬ気?」
「生きて帰りたいのに何で死ななきゃいけないんですか。…いやまぁ確かに死んだら私だけ解放されるかなとかちょっと思いましたけど。私だけ幸せになるのも目覚め悪いし恨まれるのも嫌いです。だから本気で、名前さんを探すんです」

「そんな不吉なことを言われたら、止めないわけにはいかない」
「…動いてないと怖いんです」

 ぽつりと本音が漏れ、それと同時になぜか涙もこぼれた。レッドさんが驚いたように手を離したので、私は自由になった手で涙を乱暴にふく。化粧をしていないから涙も拭き放題だなぁとなぜか他人事のように思った。


「泣くのが意外でしたか」
「少しね。君は名前と違って強いと思ってたから」

「失礼な…私だって人間です。泣きもすれば焦りもしますよ。こうしている間にも私の体に死亡判定が出ちゃうかも…今のは忘れてください失言でした」
「…君は死ぬの?」

「そんな訳ないじゃないですか。ただその可能性だってあるってことです。幽体離脱した経験なんて初めてで、体がどうなるかよくわからないし。でもゆっくりしてる時間は、多分ないと思うから…だから、」
「…出て来い、ラプラス」


 彼はそういうと、モンスターボールを放る。出てきたのは、これもまたどことなく懐かしいポケモンだった。ラプラスは私を見ると不安そうな顔をしたが、すぐに興味津々な私の表情に気付いておずおずと近づく。触れてみるとひんやり冷たく、水けを帯びていた。


「ラプラス、名前……苗字に向かって、アクアリング」

 一瞬言いかけた名前に反応して、ラプラスは主の言いつけ通り私の頭部に向かってシャボンを投げる。一瞬水でぬれる感覚がしたけれど、それはすぐに終わった。目を開けば私の頭部はシャボンの中にあって、まるで宇宙服のようになっていた。これで水の中で少し呼吸ができるという事なんだろうか。レッドさんを見るけれど、シャボンの膜で歪んで表情はよくわからない。「ありがとう!」そう言って、私はパーカーのファスナーに手をかける。下はTシャツだから恥ずかしくはない。ただ本当はズボンも脱ぎたかったけど、そこはやめておいた。何かシャボンの外で聞こえた気がしたけど気にせずに水の中に飛び込む。


 春の湖の水は、酷く冷たい。体が冷えるのを感じながら潜ろうとすると、ラプラスの腹部が私に当たった。――連れて行ってくれるんだろうか。甲羅のとげに捕まると、ラプラスはまず頭を沈めて潜水する。湖の中心は思ったより深く、ラプラスの潜水でようやくいけるような場所だった。

 水は驚くほど澄んでいて、どこまでも遠くを見渡せる。だけどその中のどこの風景にも、ポケモンどころか小魚も見当たらない。だけどラプラスも苦しそうにしているわけではないから、特にポケモンが住めない水質というわけじゃない。――聖域。不意にそんな言葉が脳裏によぎる。もしここに神様がいたとしたら、この現象は名前さんの願いがかなった結果なんだろうか。もしそうなら、人に自分の人生を押し付けて自分は死んでいくなんて冗談は頭の中だけにとどめておいてほしかった。私は完全に巻き込まれただけだ。悪くない。


 その瞬間、キンと耳鳴りがした。これが水圧というやつなんだろうか。思わず目を瞑った中にあらわれたのは、黒くて大きな塊だった。ドン。鈍い音がぶつかる音がする。なんだこれは。驚いて目を開けると、そこにはラプラスの背中以外何もなかった。もう一度目を閉じてみるけど、何もない。やっぱりこの湖は変だ。早く出たほうがいいのかもしれない。

 そんなことを思った瞬間、ふと湖の底で何か光るものが目に入った。ラプラスに手で合図すると、進路を変えて光の近くへ寄ってくれる。白い砂に半分埋もれていたそれは、透明のビーズで編まれた指輪のようなものだった。なんだろうこれは。そう思った瞬間、グンとラプラスが急上昇する。驚いてしがみつく私は、そこでようやく顔にまとわりついたシャボンがとても小さくなっていたことに気付いた。パチン。水面はまだ遠いのに、小さくなったシャボンは割れてしまう。頭皮に、顔に、鼻腔にまとわりついた冷たい水は、恐ろしいほどの勢いで私の体内に入ってくる。むせ返るたびに苦しくなり、一瞬で死を覚悟した。


「ゲホッ…ゴホッ…うぇ…」
「名前!」


 のどや鼻に入った水に拒否反応を示すように嗚咽が続く体が、温かい体温に包まれる。沈みそうになる体を支える体はレッドさんよりも大きく、どこか落ち着く香水の匂いがした気がした。ラプラスの背に押し上げられた私が涙目ながらに見えたのは、何故かレッドさんではなくグリーンさんだ。彼は怒ったような瞳を私に向けると、聞いたことのないような大きな声で「馬鹿野郎!」と叫ばれた。ぐうの音も出なかった。私はもう少しで彼の大切なものの一つを奪ってしまうところだったのだ。怒るなというほうが、無理な話だと思う。


「…ごめ…ゲホッ…んっな、さっ…ゴホッ」
「ああもういい!とりあえず水から出ろ!話はそれからだ!」

 彼はひどく怒った調子でそういうと、ラプラスに乱暴に命令する。ラプラスとグリーンさんは面識があるらしく、素直に彼の言葉に従った。私はグリーンさんに支えられながら水から上がると、そこには片頬を赤く腫らしたレッドさんが座り込んでいた。…どうやら私のわがままのせいでとんだとばっちりを受けてしまったらしい。ごめんなさいと目で訴えると、彼は手に持ったパーカーを私に差し出してくれた。私が取るより先に奪う様にとったグリーンさんの手が、まるで私の銅半身を縛り上げる様にパーカーを巻き付けた。怒っているなんてかわいいものではなく、彼は完全に激怒していた。もし"私"の体だったら、恐らくレッドさんと同じ運命をたどっていると思う。


「えっと…あの、ごめんなさい…」
「お前は!あれほどおとなしくしてろって言っただろ!レッドもレッドだ!どうしてこんな危ない真似をするんだ!」

 激高したグリーンさんに、"私"の言葉は届かない。彼の意識は完全にレッドさんに向いていて、完全に私なんて眼中になかった。


「違うよグリーンさん。私がレッドさんに無理を言って、」
「泣いたんだよ」


 レッドさんは私の言葉を遮るようにそういうと、ゆっくりと私の目を見た。大丈夫だよ。まるでそういわれてるような気がして、私は思わず口をつぐんでしまう。私はレッドさんが苦手だと、改めて感じた。


「苗字も命がかかってるって、泣いたんだ。僕らにも事情はあるけど、違う世界からやってきた苗字と彼女が言う以上彼女にだって事情はある。僕たちの勝手な都合で、彼女を縛ることはできないよ」
「…本当に、信じたのか?」

「少なくとも"この人"は僕らの知っている名前じゃない。それだけで、信じる理由になるだろ」


 彼はそういうと、ずぶ濡れになった私を一瞥した。「収穫はあった?」とまるで何事もなかったかのように笑う。私はレッドさんという人が良くわからなかった。グリーンさんは分かりやすいのに、レッドさんの思考回路だけはよくわからないままだった。

「…収穫…あっ、そうだ。指輪を拾ったんです」
「指輪?」


 先に反応したのはグリーンさんだった。彼もきっとこの湖の性質は知っているんだろう。怒るのも忘れて私を見る。けれど目が合った瞬間に私のしたことを思い出したのか、すぐに目をそらす。嫌われてしまったと思ったが、それはつまり"私"を認めてくれたという事になる。それはなんだか少しうれしいような気がした。

 固く結んだままだったこぶしを開くと、中からはまるで子供が編んだような不格好なビーズの指輪が出てきた。日差しの下で見たそれは水中に比べて随分と拙く見え、これを堂々と収穫物として見せた自分が何だか恥ずかしく思えてしまった。「まぁ名前さんには関係ないかもしれないですけど」そう言って閉じようとしたこぶしを、二つの手がとめた。一つはグリーンさん、もう一つはレッドさんだった。彼らの視線はいまだ指輪に注がれていて、二人とも私の手を止めたきり微動だにしない。「あの…」と間を持たせようとした言葉に反応したのは、グリーンさんだった。


「これは、名前の指輪だ」


 そういった彼の目は、まっすぐレッドさんに向けられる。レッドさんもつられるようにグリーンさんを見る。二人は視線を通わせたまま、同時に違う言葉を口にした。


「これは、レッドが名前にあげた指輪だ」
「これ、名前が作ってたやつだ」




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