名前変換小説 | ナノ



 荒井昭二とは、私の所属するクラスで今最も掴めない人間の一人である。

私が彼を初めて認識したのは、一年生の時の6月。自分が入りたい部が決まり、教師が一人ずつ名簿順に名前を呼んで確認をしていく作業中の事だった。明らかに運動のできなさそうな男子が『サッカー部』と小さい声で呟いたとき、私は思わず荒井昭二を凝視してしまったのだ。

 確かにこの学校は運動部をはじめとしたすべての部活の成績が優秀で、入学及び卒業することができれば華々しい未来が待っているといわれているほど有名だった。だから、運動ができないタイプでも有名どころに入って適当に過ごすことはよくあるらしい。そんな適当な人間がいる中で好成績を残せるその理由は謎に包まれている。一説によれば教師が悪魔と契約したとか生贄を捧げてるとか憶測が飛び交っている。ただ誰もそれを『戯言』と笑い飛ばさないのは、この学校の年間の行方不明者並びに死者数がやぶ医者の病院並みに多いせいかもしれない。けれどそれを踏まえても、荒井は押したら骨折しそうな程ひ弱そうだし、何より長すぎる前髪の奥の表情が運動部というさわやかさを全く感じさせなかったのだ。


 私が彼を凝視していたのに、彼も気づいたのだろう。前髪に隠れるじっとりした目を私に向けた。視線が合ったとたん、私は言葉にできない怖気を感じたのを覚えている。別に彼の容姿がどうとかそういう事じゃない。私は彼がまるで幽霊や妖怪の様に人間ではないように思えたのだ。私が思わず視線を彼の横の席に座る里山さんに目を移すと、視界の端で彼が私をねめつける様に僅かに顔を俯けた。そしてややあって、何事もないように机の上に置かれていた本に視線を落とした。――それが、今から一年前の出来事だ。



 二年生になり、私は奇しくも再び荒井昭二と同じクラスになった。その頃には私は荒井昭二を意図的に避けていて、一年間同じクラスでも一言も会話をしたことはなかった。荒井は元々積極的に友好関係を築くタイプの人間じゃない。どちらかと言えば来る者拒まず去る者追わず、のスタンスらしい。話しかけられれば答えるが、話しかけられなければ一言も話さない。だから私は、何の接点もない荒井を避け続けることができた。…二年になり、たった一人の『2年間一緒のクラスメイト』になるまでは。



「苗字さん」


 終業のチャイムが鳴り終わり、教師の号令と共に騒々しさが増した教室内。部活や帰宅する生徒で華やぐ中、あまり聞いたことのないほどのねっとりとした男声が私の名前を呼ぶ。まるで蛇にでも睨まれているような錯覚を誘うその声は、私には身に覚えがありすぎた。私はまるで催眠にでもかけられたように声の方に顔を向けると、予想通り荒井昭二が口の端を曲げる様に笑いながら立っていた。ゾクッとする何かが、背骨をそって首元までせりあがる。失礼だとは思うけれど、私は彼がどうしようもなくこわかった。



「あ、荒井君。どうかしたの?」
「今日は僕たちが日直だったんです。大半は僕が書いておきましたので、残りをお願いします」



 日直?今日は私と渡辺君の筈だ。そう思いながら黒板を見ると、そこには確かに私の苗字と彼の苗字がハの字に傾きながら書かれていた。私の表情に気づいたのだろう。「渡辺君は風邪で欠席です。気づきませんでしたか?」と、日誌を開いて欠席者のところに関節ばった指をとんと置いた。早くどっかに行ってほしい。私はそう思いながら作り笑顔で相槌を打ちながら、慌てて日誌を机の中にしまう。けれど彼は私の思惑を知ってか知らずか、私の横から離れない。教室内はあっという間に人数を減らしていく。置いて行かないで、と心の中で何度も願うけれど、その願いもむなしく瞬く間に拾い教室内は私と彼の二人きりになってしまった。



「どうしましたか。顔色がとても悪いですよ」

 ニヤニヤとした荒井の笑みが、首をかしげるようにかくんと横に倒れる。それはただ単に小首をかしげただけなのだけど、私にはそれがまるで『人形』のような動きに見えてしょうがなかった。こんなことを言うと決まって頭がおかしいと思われるけれど、私は時々荒井昭二が人間ではないように思えてしまう事がある。関節の動きや挙動。それらすべてが機械的なものに思えてしょうがなかったのだ。



「な、なんでもないよ。ええと……荒井君、サッカー部に行かなくていいの?」
「部活は一年のころに辞めました」

「えっ?……そうだったんだ。ごめん」
「謝る必要はありません」


 彼がそういうや否や、会話がぶつりと途切れる。二人きりの教室内はいつもより広く感じるのに、まるで教室内に空気がないかのように息苦しさを感じる。どうして彼は帰らないのだろう。そんな疑問をグルグルと考えていると、彼は私の横の席の椅子を引っ張って腰を掛ける。ギギィという椅子を引く音に、肩が震えてしまった。



「書かないのですか」
「え?」
「日誌ですよ。書かないのですか」
「え、あ……そうだね」


 慌てて机の中にしまった日誌を取り出して、『今日起こった出来事』という欄の二分の一のスペースを埋めていく。ちなみにもう半分は、すでに荒井昭二がきれいな小さい文字で細かく埋めてある。目を細めるともぞもぞと動き出しそうな程敷き詰められた文字たちは、まるで虫のように見えた。



「……苗字さんは」


 唐突に荒井昭二が口を開く。その唐突さに思わず体が跳ね、がの3画目がぐにゃりと伸びた。


「何をそんなに怖がっているんですか?」


 驚きすぎて息が詰まる。私はなすすべもなく彼に視線を送ると、彼はニヤニヤした笑みを私に向けていた。逆光の夕日が彼の顔に当たって陰った彼の笑みはまるで何かをたくらんでいるようで、私はとても怖くなった。――逃げたい。私はそんなこと思いながら、必死に右手を動かす。

 私には霊感があるわけじゃない。けれどまるで小動物の様に、危ないという事を勘付いてしまうことがあった。例えば1年の廊下にある掲示板。例えば特定の場所のトイレ。例えば旧校舎。触ったら大変なことになるという嫌な予感は、はじめは気のせいだと思っていた。けれど次々に行方不明者や噂によると死者が学校新聞で報道されてからは、私はこの勘に頼るようにしている。――そしてその勘が、今最大級の警鐘を鳴らしているのだ。“荒井昭二に近づくな”と。



「な、何にも怖がってないよ…?」焦りで形が崩れていく文字を無視し必死で書き殴りながら、私は彼にそれとわかる嘘をついてしまった。彼は笑う。口をひしゃげたようなその笑みは、私の中の警鐘の音をことさら大きくした。気がつけば、外の運動部の音が消えていた。――試験週間でもない今、運動場を運動部が使っていない状況なんてありえない。ぎこちない動きで私は窓を見る。日直の仕事である窓閉めは、私と荒井君のどちらもやっていないのにぴったり占められてすべて鍵までかけられていた。――いつの間に?震える指から、買ったばかりの可愛いシャープペンシルが落ちた。



「……わた、私、帰らないと……」


 日誌をそのままによろよろとした動作で鞄をつかむ。彼は止めなかったが、代わりに笑みをしまった。そしてあの独特のさげすむような視線で、私を射抜く。私は逃げるように背を向けて扉に手をかけるけれど、ガッと音がするだけで廊下の向こうの景色は一向に現れなかった。



「“気付いた人”は、あなた2人目ですよ」


 ねっとりした声が私の耳に絡みつく。この扉は外側からも鍵がかけれる。――でももう片方の出入り口なら、内側からしか書けれなかったはずだ。私は彼の言葉を意図的に無視してもう一つの扉に飛びつく。けれどそのドアのカギは確かにかかっていないはずなのに、横に引いても押してもびくともしなかった。思わず拳で叩いてみたけれど、まるでその扉は1枚の分厚い板に描かれた架空の扉だとでもいうようにびくともしなかった。ガラスさえ、木のように固い感触がした。


「……どういう事」
「一人目は、生贄になってもらいました。その年に限って、本来生贄になる予定だった人…近藤君と言いましたか。その近藤君が、自ら命を絶ってしまったんです」


 ギィ、と椅子がきしむような音が教室内に響く。そして数刻を待たずに、シューズの音が私の背後に近づいてきた。私はゆっくりと後ろを振り返る。そして、振り返ったことを心の底から後悔した。荒井昭二の顔の半分がつるつるした木の表面にすげ変わっていて、その様は理科室に飾られている人体模型を連想させた。足音と共に荒井昭二――いや、人間ではない化け物が私に向かってまっすぐ歩いてくる。彼が私の前にたどり着くときには、私はもう腰を抜かして立ち上がることさえできなくなってきた。


「……あ、あ、……あらい、く」
「でも今年は最後。そして今年の生贄はそんな人ではなさそうなので、そのあたりは安心してください。僕はあなたを殺したいわけじゃない」

「……あ、あ」
「ただですね、僕は君みたいなタイプは苦手なんですよ。人を見た目で判断する、貴方のような人がね。――1年前の事でしたか。僕がサッカー部。そんなにおかしかったですか?そんなに目を剥いて驚くほどの事でしたか?」

「う…あ……ご、ごめ」
「…まあそんなことはいいんですよ。僕自身も向いていないとは思いましたし。理由も単純なものです。今年は『始まり』の年なので、体力をつけておきたかった。それだけです」

「……ごめ。ごめんなさい」
「僕は今日でこの姿とようやく決別することができます。今はこんな姿ですが、これでも昔は普通の人間だったんですよ。……信じられないという目ですね。まああなたは見た目でものを判断する方なのでしょうがないでしょう。……でも、あなたがどれ程怖がろうと今日で最後です。もう倉田さんには逃げる力もないでしょうし、あっけなく終わるはずです」

「くら……」


 倉田さん。ふとその名前に聞き覚えがあり、目を見張る。少し前まで、一年生の間でとってもかわいい子がいると評判だった新聞部の子だ。今は体調を崩して休んでいるらしく、男友達にいる彼女のファンも肩を落としていた。――もしかして、その倉田さんだろうか。そういえば数日前、荒井君は新聞部の集まりに呼ばれたとも聞く。

 生贄?倉田さん?この姿と決別?色々な単語が頭を巡り、思考能力は低下していく。繋がらない。どうして倉田さんが逃げなければ化け物の姿から人間に戻るのだろう。生贄とは何のことなんだろう。そんなことを考えるあまり、荒井昭二の半分の顔を持った化け物が眼前ギリギリに迫るまでその姿が私ににじり寄っていることに気づきもしなかった。ヒッとひきつったような悲鳴が、無意識に零れ落ちる。恐怖に頬が濡れるのを感じたけれど、無いはずの人形の目線を感じて動くこともできなかった。



「……そんなに怖がらなく絵もいいじゃないですか。僕は明日から貴方と同じ普通の人間です」
「あ……いっ、痛っ」


 木でできた手が、恐ろしいほどの力で私の手首を締め上げる。どんなに振りほどこうとしても全く動かないその手は、まるで地中深く埋められたようにびくともしなかった。


「あ、ら、荒井、く」
「けれど……もし貴方がこの事を人に言ったら、僕はあなたを始末しなければいけません。まあ、大抵貴方の頭がおかしくなったと馬鹿にされるだけでしょうけどね。でもたとえ誰一人信じなくても、それが真実である以上放っておくことはできません。――約束してください。このことは誰にも言わないと」

「す、する。するから、助けて」
「……始めに言った筈です。僕は、貴方を殺す気はないと」


 彼は片方の表情をムッとさせながらそういうと、私の手を放す。私が瞬きをすると同時に、彼の姿は元の荒井昭二に戻っていた。私の中の警告音が、徐々に鳴りやんで行くのを感じる。彼が掴んでいた手を見ると、くっきりと彼の手形が残っていた。明日には痣になりそうなそんな手形だった。

 涙でかすんだ眼をこすって、私は荒井昭二を見上げる。荒井昭二は相変わらず表情の読めない目で私をあざ笑うように見下していた。私はその眼を見返しながら、内心不思議に思っていた。彼は、荒井昭二という人は私に何を伝えたいのだろう。殺すわけでもない。咎める訳でもない。ただ脅すように教室に閉じ込めて私を怖がらせながらも、怖がるなという。結局のところ彼が何を言いたいのか、私には塵ほどにも理解できなかった。



 彼は私から静かに目をそらすと、いつの間に持っていたのか日誌を私に差し出す。気もそぞろに書いていたせいか支離滅裂な今日の出来事は、このまま教師に出せば明日再提出を求められそうな程だった。真新しいシャープペンは彼の左手に収まっていたが、そちらは私の方に差し出してはくれなかった。


「こちらは、明日お返ししましょう」
「……あ、あの」

「日誌の提出、忘れずにお願いします。人間に戻れた初日早々、職員室に呼び出されるのはごめんですからね。では、また」
「あの!」



 さっきまでのはなんだったのだろうか。荒井昭二が手をかけると、ドアは難なく開いて教室のこもった空気と廊下の空気が交互に行き交う。私は呼び止めてしまったものの、自分でも彼に何を伝えようとしているのかわからなかった。彼が振り返る。その動きはカクカクしていて、まるで人形のようだと思った。


「……あ」
「何ですか」

「…どうして。どうして、こんなこと」


 荒井昭二は私の言いかけたことが分かったのか、その表情を僅かに曇らした。その表情はどう見てもさっきまでの人形ではなく、人間のような表情だった。


「さぁ、僕にもわかりません。きっと……いえ、最後の記念に脅かしたかっただけかもしれません。貴方はいつも僕を見て怯えていたようでしたから」
「……え?」

「では、また明日」



 彼はそういうと、開けたままだったドアに体をすべり込ませて出て行ってしまう。不思議なことに、出ていった瞬間から彼の足音は消えてしまった。そしてそれと代わるように、外で練習をしている野球部やサッカー部の練習の声や吹奏楽部の音が聞こえてきた。這いつくばるように廊下へ行くと、そこには荒井昭二どころか人っ子一人いなかった。きっと彼は、倉田さんのところへ行ったのだろう。……到底信じれない話だけど、人間になるために。


「……また、明日…か」


 『モウイヤダ』私の声と重なるように、誰かの声が聞こえた気がした。驚いて目を開けると、カランと軽い音が耳に響いて何かが力の抜けた足に当たった。それは、先ほど荒井昭二が持って行ったはずの私のシャープペンシルだった。もう嫌だ。確かにそう聞こえた声は、荒井昭二の声だったのだろうか。振るえそうになる指先を必死で伸ばしてそのシャープペンシルを拾うと、まるでぎゅうと握りしめられていたようにそれは暖かかった。

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