私は丸二日くらい迷子になっていた。
出たと思ったら入っていて、曲がったと思ったら元に戻っている。まるで魔法でもかかっている迷路のような場所に、私は迷い込んでいた。どうしてこうなったんだろうと自分に聞いてもよく分からない。私はただお母さんに頼まれたモーモーミルクを買いに、ちょっと外へ出てきただけ。いつもの道を通って、いつもミルクを売ってくれるおばさんの家に向かっていただけなのに。
握りしめたモーモーミルクは、もう貰った時から半分以上減ってしまっている。ここには食べ物も飲み物もないから、我慢出来ないときにちょびっとだけ飲んでしまった。そのちょびっとが重なって、もう今じゃあ半分しかない。……お母さんに怒られちゃうかも知れない。ぎゅうとミルクの入った瓶を抱きしめて、階段でひと休みした。横にはさっき下に落ちてたレンガで付けた『もう通ったよマーク』がある。……これを見るのはたしか、6回目だったっけ。
「……お腹、へったなぁ」
お腹はまるで持ってるミルクを欲しがっているみたいにぐるぐるとうるさい。ちょっと静かにしてとお腹を叩くけど、音は止んでくれなかった。どうしよう。お腹へった。帰り道がわからない。こわい。
お腹が減ったとぐずる私の耳に、キィンっていう耳鳴りが響く。“迷路さん”が、私に何か言おうとしてるみたいだった。
魔法にかかった迷路は、迷ってる私に時々道案内をしてくれた。でも意地悪をしているのか、迷路の“声”の通りに行ってもなかなか外には出られない。でも“迷路さん”は、意地悪なんかじゃなくて出口は少しの間しか開かないって言った。ここはどれだけ泣いたって誰も助けてくれる人はいないから、私は迷路さんを信じるしかない。だから私は、静かに迷路さんの言葉を待った。しばらくすると耳鳴りは収まって、男の人みたいな低い声がした。
――腹が減ったのか
「だって……二日くらい食べてないんだもん」
――手の中のものを飲めばいいだろう
「これはお母さんに頼まれたものだもん。それにおつかいが出来ない子は旅には出れないって、」
――旅は命よりも大事か?
「うぅ……出れるもん、きっと」
どこから聞こえてくるか分からない声は、まるで頭の中に響いてるみたいでとても不思議な感じがする。最初はちょっぴり怖かったけれど、この迷路さん以外の人に会えないということが分かってから逆にこの声にほっとするようになっていた。一人は怖い。二年後には一人で旅に出る予定だけど、今はちょっとまだ怖い。
弱くなった心のなかを何とかしたくて、ぎゅっと目をつむってお母さんの笑顔を思い出す。“何があってもくじけちゃダメよ”、“チャンピオンをめざすんだったら、女の子でもたくましくなくっちゃね”前に言われたお母さんの言葉を、何回も何回も繰り返す。私は後2年で10歳だ。もうすぐ旅に出るんだ。こんな事で、泣いてられない。こんなところで泣いてたら、私はきっと旅なんて出来ない。憧れのチャンピオン、コウキさんを倒せない。
「諦めないもん」
足をぽんぽんしてから、何とか立ち上がる。なんとかこのミルクをお母さんに届ける。で、私は二年後に旅に出るんだ。お母さんもお父さんも笑って送り出せるような強い子になって、私は旅に出るんだ。
がくがくする足でなんとか歩く私に、迷路さんは溜息をつくみたいに唸る。もう泣かないのか?とちょっと呆れたみたいに聞いた。
「もう、なかないよ。……やっぱり迷路さんは、私に意地悪してたんだ」
――違うといっただろう。お前の足が遅いのだ。そんなペースじゃいくら出口を教えたとて塞がってしまうのだ
「だって二日くらい歩いてるんだもん、疲れちゃうよ」
――人の子というのは弱い物だな。……前の黒いのには触れるなよ。死ぬぞ。
「うわっと……ありがとう、迷路さん」
「私の背に乗せてやれればいいんだがな」
まるで独り言を言うみたいな小さな声に、私はちょっとだけ顔を上げる。声は小さくなったのに、その声はまるですぐそばから聞こえたように聞こえた。――でもそれは気のせいだったのか、私の周りには魔法の迷路以外の何もない。人も居なければ、迷路さんの口も見当たらない。おかしいな、今たしかに直ぐ側から聞こえた気がしたのに。
「おんぶされる年じゃないよ。もう8歳だもん」
――おんぶ?
「え、だって迷路さん今背中に乗せてくれるって言ったでしょ?」
――……そうか。人を背に乗せることをおんぶともいうのか
「迷路さんはあんまり人と話したことがないの?」
――そうだな。無い事もないが、こうして言葉を交わすのはお前が初めてだな。……そもそもここは安易に入れる場所ではないのだ
「あんい?」
――容易い……いや、かんたん、という意味だ。人の子ならそれぐらいは学んでおけ。……旅に出るのだろう?
「……ははっ。なんか迷路さん、お母さんみたいなこと言うね」
たくさん話しすぎてカラカラになっていく喉に気づきながら、私は迷路さんに笑う。どこから見ているのかは分からないけれど、迷路さんにもそれが伝わったのか初めて笑ったなという声が聞こえた。その声はとても優しくて、やっぱり意地悪しているような声には聞こえなかった。
「……ねえ、迷路さん」
――何だ
「私、ここから出られるのかなあ」
――運がよければな。大人の足でも間に合わぬような場所に出口が現れることもある上、いつ出てくるかも分からないのだ
「そっかぁ。じゃあ、本当に旅に出られないかもしれないね」
――人の子の割に、意外に冷静だな
「ん、怖いよ。本当はすっごく怖くて泣きたいよ。でも、泣いたら私はチャンピオンのコウキさんみたいに強くなれないの。だから、我慢してるの」
たぷんと波打つモーモーミルクを抱きしめながら、私は笑って見せる。唇を舐めたって口の中自体がカラカラしてるから全然しめらない。少しだけ飲んじゃおうか。そう思ったところで、ふと自分の足元が暗くなった。でもそれは一瞬で、私が上を見上げる頃には影はなくなっていた。――まるですごく大きな何かが空を飛んでたように、ふわりと温かい風が顔に当たる。その温かさは、なぜか見たこともない迷路さんを思い出させた。
「……迷路さん?」
――おんぶ、とやらをしてやろう
突然迷路さんはそういった。でもその声は今までの声とは違って、何かを怖がっているような感じがした。おんぶをするのが怖いの?ときこうとすると、まるで私の声を邪魔するように迷路さんはまた口を開いた。
――そこの角を右に曲がり、一旦戻ってから今度は左に行き階段を降りてから、目を瞑ったまま石の門をくぐれ。……必ず、目は瞑っていろ
「……助けてくれるの?迷路さん」
――お前がどこまで行けるのか、見たくなったのだ。齢8つのお前が、どこまで行けるのかを。私なら、どんな場所でも数秒とかからずいけるからな
「……どうして目を閉じなくちゃいけないの?」
――泣きたくはないだろう?
自分自身を馬鹿にしているみたいな口調でそういうと、迷路さんははやくしろと私を急かす。速くしないと気が変わってしまうぞ、と聞いたところで私は慌てて目の前のカーブを右に曲がる。そして一旦もどって、今度は左に曲がる。さっきと違う見たこともない景色に、私はちょっとだけビックリした。今まで石でできた通路と建物しか無かったのに、そこは草や木や水たまりがあった。――どういう事なんだろう。当たりを見回すとそこには石の門があって、その向こうには見たこともないぐらい大きい、氷みたいな色をした柱が何本も立っていた。
「大きな柱……」
――早くしろ。家に帰りたいのだろう
「うん……」
びくびくしながら石の門の前まで行くと、まるで怒るように目を瞑れという声が響く。咄嗟にギュウと瞑ると、迷路さんはそれでいいと笑った。そして次の瞬間、ふわりとした温かい風が体いっぱいに向かってきて、思わず転びそうになった私を硬い物が支えた。触れると、それはとても暖かかった。これは迷路さんなのかなとぺたぺたと触っていると、あまり触れるなとイラついたような声がしたすごく大きな迷路さんはどこに手を伸ばしても大きさが分からないほど大きくて、私は少しだけ怖くなった。目を開けてしまいたいという思いを消して、私は片手でミルクを抱き抱えながら迷路さんの体らしい部分に捕まる。
迷路さんが何だって良い、私は家に帰るんだ。そう決めて登ろうと思った瞬間、「待て!」という男の子のような声が響いた。二日経っても聞けなかった人の声にビックリしすぎて、私は自分でも知らないうちに目を開けてしまっていた。
目を開けるなと言われていたことを忘れ振り返った先には、見たことのある人がいた。――テレビや新聞と全く同じ顔に、私は声も出なかった。なんでここに、こんな有名な人がいるんだろう。ビックリして腕から落ちた瓶が、パリンと足元で割れた。死んでもお母さんに渡すと決めていたモーモーミルクは地面に染みこんで、見えなくなっていった。
「……コウキ…さん?」
「ギラティナ、その子の家族がその子を必死にさがしているんだ」
テレビでこの人が戦うチャンピオン戦をみてから、私はこの人みたいになりたいとずっと思ってきた。ポケモンを誰よりも好きでいて誰よりも強い。そんな優しいトレーナーに私もなりたいとずっと思ってきた。その人が、目の前に居る。けれど、私は不思議とドキドキしなかった。コウキさんの声を怖がるみたいに、触っていた迷路さんが震えたからかもしれない。
「……ギラ、ティナ?」
迷路さんは何も言わない。たけど緊張してるみたいに、迷路さんの体が硬くなっていくのが分かった。泣きたくはないだろう?という迷路さんの言葉を思い出しながら、私は振り返る。“やめろ”という迷路さんの声がすると同時に、私はこの二日間必死に私を出そうとしてくれた迷路さんを初めて見た。
――怖いだろう
見たこともない大きなポケモンはそう言って、私の手を逃れるようにずるりと浮き上がる。確かにここにおんぶされたら、どんな場所だって一瞬で行けそう。しっかりと迷路さんのことを怖がっている心の端っこで、私はそんな事を考えていた。一瞬だけ迷ってから、私は迷路さんに向かって手を伸ばす。どんどん遠くに行っていた迷路さんは、そこでピタリと動きを止めた。
「迷路さん……ミルク、こぼしちゃった」
「……迷路さん?」
――だから、どうした
後ろでコウキさんが、不思議そうな声をあげる。けれど私は、迷路さんから目を離せなかった。迷路さんも、私から目を離さなかった。
「さっき、言ったでしょ。迷路さんなら、どんな場所でも一瞬で行けるって」
――……言ったな
「だから、迷路さんがおんぶしてくれたら……きっとすぐに、ミルクをお母さんのところに持っていけると思うの」
自分でも何を言ってるのか分からないまま、私はただ迷路さんを見上げていた。後ろで、コウキさんがクスッと笑ったような気がする。迷路さんは私をしばらく見下ろした後に、溜息をつくみたいに呻いた。それは頭に響くような声じゃなく、ギラティナっていうポケモンの鳴き声だった。
――我儘な、人の子だな。お前は
頭の中にそう響いた瞬間、伸ばした私の手のひらにまた温かいものが触れる。後ろでコウキさんが「素敵な友達ができたんだね、ギラティナ」と小さく笑った。
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