番外編 | ナノ

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Merry Merry

(7/8)

 まるでシャボン玉のそれのように目の前の暗闇がはじけて消える。ベランダにいた私は、気付けば自分の部屋に座り込んでいた。暖まっていないひんやりとした空気が全身を刺す。けれど何より痛いのは、頭上から突き刺さる雲雀さんの視線だ。そっと窺い見た彼の目はまるで骸さんのように感情を悟らせない。骸さんはわざとやっているのに対し、彼は地のままでやっているから更にたちが悪いように思える。

 何か言わなきゃ。そう思い口を開きかけた瞬間、手首に付いたままの手錠が棘をしまう代わりに力いっぱい締め上げる。左右バラバラでついていた手錠は暗闇であがくうちに1つに繋がってしまったらしく、気づけば私は手の自由を失っていた。ぎゅうと握りしめられた彼の手のひらが僅かに開く。途端に緩んだ彼の手錠はカシャリと音を立て、全て床の上に落ちた。ヒリヒリとした痛みに思わず手首を押さえる。皮膚は圧迫により赤く腫れ上がり、場所によっては黒く痣になっていた。一歩、雲雀恭弥が私に向かって足を踏み出す。反射的に力を入れた体に、予想を裏切った優しさをはらんだ彼の指先が私に触れた。なんで。思うより先に言葉がこぼれ落ちる。彼は笑ってはいないが、怒っても居なさそうな表情で静かに私を見返した。



「馬鹿なの、君は」

 表情からは想像できなかった厳しい声音で彼は言う。体に触れた指は私の手首を捕らえ、まるで慰めでもするかのように赤く腫れ上がった線をなぞる。


「いくら六道骸の霧の炎を帯びていようと有幻覚が使えるわけじゃない。飛び降りてたら死んでたよ」


 淡々と状況を説明する彼はそれだけ言うと、私に向けていた視線を手に移す。そして僅かに不機嫌そうに眉根を寄せると、私の手をあっさりと離した。置き去りにされた手は迷子になったように行き場を失い静かに床に落ちる。彼は呆けている私を見て小さく息をついた。


「死にたかったら僕に言えばいいのに。すぐに咬み殺してあげるから」
「……雲雀、さ」


 彼は私の言葉を待たず、小さくハリネズミの名前を口にする。一瞬で姿を表したそれは私と雲雀さんを見比べ、まるで怖気づくようにキュゥと鳴いた。ロールと呼ばれたハリネズミは雲雀さんの「ガンビオフォルマ」という言葉を聞き、戸惑ったような様子を見せながらも紫の炎を体から吹き出した。それは雲雀さんの体へと纏わり、先ほど見た長い学ランへと姿を変える。そして普段持っているものとは違うデザインのトンファーをゆっくりと私に向けた。冷たい瞳が無機質に私を射抜く。


「教えてよ。死にたいの?」


 冷えきった声が静かに響く。私は声を出すこともできず、ただただ雲雀さんを見返す。気のせいだろうか。その瞳からもトンファーからも全く殺気を感じない。まるで塵ほども私を殺す気はないというようなそんな雰囲気さえ感じる。
 いや、実際殺す気はないのかもしれない。私を殺したいのなら、先程球針態など使わずに落ちていくのを見守っていればいいだけの話だ。それとも自殺は並盛の風紀が乱れるから止めただけなのだろうか。考えても雲雀さんの気持ちはわからず、堂々巡りをするだけだった。


「…雲雀さん?」
「教えてよ」


 トンファーの先がゆっくりと私の左胸に当たる。彼にとって私の息の根を止めることは、赤子の手をひねるようなものなんだろう。覚悟の炎がちらりとトンファーに灯る。ああ本気だと、本能的に察した。


「死にたく、無いです」
「へぇ。じゃあどうして飛び降りたの。また神社にでも逃げるつもり?」

「…それは」

 雲雀恭弥に『見ているとイラつく』と言われたから。報われないと知りながら雲雀さんを意識したくないから。そんな告白めいたことは言えるはずもなく口ごもった私を彼は諫めるようにトンファーの先を胸に押し付ける。しかしそんな行動とは裏腹に、揺らめいていたはずの炎はすでに消えていた。


「…いつまでも、雲雀さんの迷惑になりたくなくて」
「僕の気持ちを勝手に推し量らないでくれる。それこそ迷惑だ」


 必死にうそぶいた言葉は直ぐに彼の言葉の牙によって咬み砕かれてしまう。彼は口数は少ないけれど、口下手というわけではない。口論にまで発展することは少ないものの、私はいつも彼の言葉に負けてしまう。その結果がこの6年という日々だ。私はどれだけ彼に自立を訴えても言葉により、あるいは力を持って弾圧されてしまう。私が彼に勝てないことくらい、この6年の間に嫌というほど感じてきた。でも今負けたらこれから彼の気まぐれが続く限りずっとこの関係が続きそうで、私は言葉を振り絞る。


「…雲雀さんは、私のこと、どう思ってますか」
「へぇ……随分とこだわるね。それがさっきのことと関係在るとでもいいたいの?」
「…私は」


 震えて崩れ落ちそうになる言葉を必死に奮い立たせながら、小さく息を吸う。トンファーを持つ彼の手に視線を落とす。白くて綺麗な手だと、この6年の間意識して来なかったことを、なぜだか今更のように考えた。


「私は、雲雀さんのことを家族と思っています」


 冷えきった空気が殊更固まるのを感じた。彼の指先は私の言葉を受けても微動だにしない。不意に、彼の向こうの机の上に置き去りにしたままの黄色い包装紙が目に入った。それを編んでいた時には想像もしていなかったこの事態におもわず笑ってしまいそうになる。
 ――家族だと思っています。当たり前のように唇に乗った嘘が本当になるように願いながら少しだけ目を閉じる。勿論家族と思っているのは嘘じゃない。だけどそれだけじゃないのは、さすがの私ももう分かっていた。意識したくないという感情は意識しているからこそ出るものなのも本当はずっと前から理解している。ただ私は雲雀さんのことが家族以上に大切に思い始めてしまっている事が怖かっただけだ。



「…だから、雲雀さんのことを…その、知りたいんです。でもその気持が迷惑なら、出ていくしかないって、思って」


 そこまで言ってふと違和感に気づく。雲雀さんはこんなにも私の身勝手な意見を黙って聞く人だっただろうか。「そんな下らない枠に僕をはめ込まないでくれる」とトンファーを振り上げるのが彼じゃなかっただろうか。恐る恐る目を開ける。胸に当てられたトンファーは、いつの間にか普段使っているものと同じ物に摩り替わっている。その向こうに見えたはずの学ランはいつものスーツに変わり、その横でロールが笑いながら雲雀さんを見上げている。思わず彼の視線の先を追うと、そこには当たり前のように雲雀恭弥の顔があった。だけどその表情はこの6年間でも見たことのない表情で、見た私のほうが面食らってしまう。彼は目をこれ以上無いほどに見開き、その三白眼をただただ私に向けていた。「雲雀さん…?」思わず口にした彼の名前は冷たい部屋に心もとなく響き、凍りついた空気を震わせた。


 彼の目がわずかに細められる。手にしたトンファーは重い音を立てて床に落ち、空いた手はまるで行き場を失ったようにゆっくりと重力に従って落ちていく。彼の呼吸音さえ大きく聞こえ、沈黙がとてもうるさいものに感じる。「雲雀さん」できるだけ小さくしようと務めた声はかすれ、半分以上は只の息にしかならなかった。


「…理解できないな」


 彼は小さくそう呟いた。しかしその拒絶の言葉とは裏腹に彼の手は私の掌をつかむ。めくられたままのそこには、相変わらず昔の生々しいままの傷跡が残っている。球針態で阻まれた事により未だに私の中に残る藍色の炎は、今もまだ私に魔法をかけたままだ。彼は私の傷跡をそっとなぞる。有幻覚ではないせいか、その傷は触れてるのに少しも痛くはなかった。


「…雲雀さん?」
「家族や仲間というものに固執するあの小動物になる気はないよ、僕は」


 珍しく煮え切らない調子で彼は言葉を続ける。けれどまるで言葉とは矛盾するように空っぽの手は私の頬に触れる。冷たい指先が頬に触れ、思わず震える私に彼は薄く口角を釣り上げる。笑っている?思わず目を見張る私の様子に彼はふと「懐かしいな」と零した。私は彼の言葉の意味がわからず、只々彼の言葉を反芻することしかできないでいた。


 あの小動物というのはボンゴレの10代目のボス、沢田綱吉のことだろう。遠い昔の事で曖昧だけど彼は私の知る原作でもリボーンさんは勿論沢田さんと山本さんには固執する描写が多かった気がする。きっと戦いを好む雲雀れ恭弥の本質的な部分がそうさせたのだろう。原作でも何度も彼らを否定しながら、それでも固執するあまり彼らのように群れていく存在になっていったのを思い出した。

 彼らみたいになりたくない。彼らのように仲間を思い依存しあう関係になりたくない。それはどこか既視感を覚える感情だった。どこで感じたんだろう。そう思いを巡らそうとするとそれを阻止するかのように彼の手が頬の横で動く。動揺とともに感じる言葉では表しがたい感情に、私は既視感の原因を見た気がした。



「僕が病院に行った時、君は今と同じ反応をした」
「……骸さんと戦った後の、ですか?」

「そう。全く成長がないね、君は。あの小動物とは大違いだ」


 彼はそう言うと触れていた手をどける。そして私から少し離れた場所に腰掛けると、ロールの顔を指先で撫でた。ロールは一度だけ雲雀さんに身を寄せると、ふと私の方を見る。そして双方を見比べ、きっとこの雰囲気なら雲雀さんが居ても甘えてもいいと思ったのか私の方に歩き出した。それは雲雀さんが見ている前では初めてのことで、私も彼も驚きの目をロールに向けてしまう。ロールは私のへたり込んだままの腹部に登ると、大きく欠伸をして丸まってしまう。それは数年前の雲雀さんのように思え、思わず笑ってしまった。


「何が可笑しいの」
「……いえ、なんでもないです。可愛いなって思って」

「君は本当に群れ合うのが好きだね。理解できないな」
「…そう、ですね」


 ロールを指で撫でながら、『それは雲雀さんも一緒じゃないか』という言葉を密かに飲み込む。あれほど怖かったはずの雲雀さんが、今日はなぜだかとても近く感じてしまう。何だかんだ雲雀さんはボンゴレという組織とともに、色々な戦いをしている。群れないと言いながらもヒバードや私、ロールを家に置く雲雀恭弥を私は知っている。――でも何より彼も私も考えていたことが一緒だと気づいてしまったからなのかもしれない。報われないから好きになりたくない私。大切に思い依存し合う弱い存在になりたくない雲雀恭弥。突き詰めれば多分一緒のようなものだ。ただ前者は恋愛感情で、後者は家族や仲間に思うような感情だとしても。

 部屋の緊張感が無くなったのを知ってか知らずか、隠れていたヒバード2羽がひょっこり顔を出す。カメラが付いているのは私の家族の方で、もう一羽は雲雀さんと常に行動を共にする彼のお供だ。カメラのついていない方のヒバードはパタパタと部屋を翔び、疲れたように机に止まる。無意識にそれを目で追った私がことの重大さに気づく前に、雲雀恭弥の声が二人分の空気でだいぶ温まった部屋に響く。



「…なにそれ」

 その言葉は私を凍りつかせるには十分すぎる言葉だった。
 机の上に乗った大きい黄色い包みは、まるでクリスマスという日を祝うようにリボンをつけている。彼もそれに気づいたのだろう。不機嫌に向けられた目は先程とは一変し、今にも私に制裁を加えそうな怒気を含んでいる。


「えっと、その…」
「…ああ、そういえば電話で言っていたね。浮かれていたって。コレのことかい?」

「あの…ひば、」
「君と山中勇治はどれだけ群れ合えば気が済むんだい」


 唐突に出てきた勇治さんの名前に言葉が止まる。じゃあ始めから私が勇治さんとマフラーを作ろうとしていたことはお見通しだったんだろうか。あっけにとられる私に彼はプレゼントを投げつける。唐突すぎて受け取れなかったプレゼントは腿にずり落ちたロールの背に刺さった。「あ」と思った時にはもう遅かった。「ピキィ」と驚いたようなロールの声がしたかと思うと、彼の背を覆う針はぐんと太く長くなり、まるで処刑するようにプレゼントとその中身を突き破った。血祭りにあげられたマフラーには大きな針が何本も刺さり、網目を偏らせている。まるで自分があそこで突き刺さっているようにさえ感じ、声が出なかった。

 一方雲雀恭弥はこうなることを見越していたとでも言うように冷静だった。私の様子など素知らぬ顔で、彼は針が突き刺さったマフラーを口角を緩めながら見続けている。ロールは未だに興奮しているのか、威嚇するように鳴き続けていた。


「随分と古風なんだね、君の発想力は。まあどうせ山中勇治はイタリアに居るけど」


 彼はまるで私がユウジさんにマフラーをあげると勘違いしているようにそう言うと、ロールの背に絡んだそれを取る。乱暴に取られたそれは小さな音を立てて糸が切れ、大きな穴を開けて彼の手に収まった。それまるで傷だらけで穴だらけで雲雀さんの手の中に握られていた5年前の自分を見ているようで心が痛い。そう思っていると藍色の炎が淡く私の体を包み、再び私の体を変化させる。首に当たる髪の感覚がなくなった所を見ると、骸さんに出会った後の自分の姿にでもなったんだろう。彼はマフラーから私に目を向け、不機嫌そうに眉根を寄せる。「まだそんなに残ってたんだ」鋭い声が響いた。

 

「……それ、返していただけますか」
 それは、自分で思うよりも冷えきった声音になり部屋の中に響いた。この震えは悲しみなのか虚しさなのか、はたまた怒りなのかさえ分からない。けれど私はあれを雲雀さんにだけは持っていてほしくなかった。

 ようやく落ち着いてきたロールを床に置き、私は下を向いたまま立ち上がる。目頭がやけに熱い。耐えろ耐えろと言い聞かせても、押し殺した感情が流れでてきてしまうのは時間の問題だった。



「いいよ。いらないから」


 傷だらけになったマフラーは空中で弧を描く。慌てて手を差し出した拍子に、こらえていた思いの欠片がはたりとフローリングの上に落ちた。雲雀恭弥と目が合う。彼の目はまるで妖怪でも見ているかのように驚きと動揺が滲んでいて、私は堪え切れずに部屋の外に飛び出した。いや正確には飛び出そうとしただけだった。私が扉に飛びつくよりも早く雲雀恭弥の手錠が私の片手とドアノブをつないでしまったのだ。これじゃあ逃げたくても逃げられない。


「は、離してください…その、捨てにいくだけなんで」


 言い訳の声が驚くほど震える。やっぱり私はあのマフラーに感謝以外の感情を編みこみすぎたらしい。受け取って貰えない事は想定していたのに、まさか破れただけでこんなに悲しくなるなんて思いもしなかった。…こんな事なら、クローゼットの奥底に隠しておけばよかった。雲雀恭弥に対する思いと同じように、見えない胸の底の底に隠しておくべきだった。先に立たない後悔だけが、尻尾を噛み合った二匹の蛇のようにグルグルと回った


「そんなに大切なの、それ」

 雲雀恭弥の声が静かに響く。違うと言いかけるけれど。彼の鋭い眼力の前に怖気づいた嘘は素直に喉の奥へと戻っていく。「…まあ、僕には関係ないけどね」彼は僅かに間をおいた後吐き捨てるように小さく息をつく。その表情は苛立っているようにも呆れているようにも見え、私は真実を言おうとする口をつぐんでしまう。

 それは雲雀さんに作ったものなんです。そう伝えればいいのに、こんな姿に成り果て泣きじゃくった今、本当のことを言う勇気は私にはない。元はといえば、私が変な思いを雲雀さんに抱いてしまったせいだ。幸い彼は勇治さんにあげるものだと勘違いしてくれているし、このまま捨ててしまおう。嘘を本当にする筋道を立てていると自然に涙が止んだ。やっぱり私は、私が思う以上に強い人間になっているのかもしれない。そんな事を思いながら、ふと雲雀さんの足元で床に落ちた何かを鼻で突っついているロールが目に入った。白色のそれは黄色の包装紙とは違い、画用紙のように表面に凹凸のある厚手の紙だ。それを認識した瞬間、手錠とドアノブが軋み派手な音が部屋の中にこだまする。雲雀さんは何かに気づいたように私の視線を追い、「なんだい、それ」とロールに小さく呼びかけた。


「や、待っ…!」
「クピィ」

 ロールは鼻先と口で器用に画用紙を咥えると、簡素なメッセージカードを主人に渡そうとする。雲雀恭弥は私の変化が面白く無いのか、「黙って」という短い言葉とともに私の方に掌を向けた。途端に後頭部から私の口を一周するように冷たい金属が絡みつく。それが大きな手錠だということに気づいたのは、留め具が閉まる音を聞いた直後だった。


「んっ…んん」

 制止の言葉がうまく声にできずくぐもった音しか出ない。そんな私の反応に戸惑ったのはロールだった。ロールはしばらく主人である雲雀恭弥と私を見比べる。まるで心配するように僅かに悲しそうな顔をしたロールは、それでも雲雀恭弥の所へ戻っていく。当たり前だと思うのに、なぜだか酷く裏切られたような気分になるのはどうしてだろうか。ロールの主人は雲雀恭弥なんだから、彼の言うことを聞くのは当たり前なのに。



「よくやったね、ロール。戻って」


 彼は目線を合わせるように屈むと、トゲの先を撫でる。不思議な事にその一瞬でロールは紫の炎に包まれ、炎とともに彼のブレスレッドに戻っていってしまった。…やっぱりロールは昔漫画で見たボックス兵器のようなものだったのかと思いかけ、状況の悪さに気づいて歯噛みする。雲雀恭弥は手にとった二つ折りのメッセージカードに目をやる。誰宛かは書いていないのは表だけで、中にはしっかりマフラーを当てた人の名前と理由が短い言葉で綴られている。やめて。恥ずかしさに再び溢れだした涙が、口を覆う手錠に滴る。彼はそんな私に一瞥もくれることなく閉じられた紙を開いた。


『雲雀さん、いつも本当にありがとう』たったそれだけの文章を数十秒かけて読んだ雲雀さんは、意外にも律儀に紙を折り直す。再び2つに閉じられたメッセージカードは音もなく床に落ちそれきり動かなくなった。一方雲雀恭弥は私に向き直り、蔑むような呆れたような表情を見せる。躊躇いなく狭めてくる距離に気圧されるように私の背はドアに押し付けられる。彼は私の前で立ち止まると、空っぽの手を差し出した。その先に在る私の手には、黒いマフラーが握られている。



「気が変わったよ。やっぱり君にはあげない」


 子供のような我儘さでそういった彼は、私の返事を待たずに黒いマフラーを引ったくる。そして数秒置いて私を拘束していたすべての手錠が消えた。状況をいまいち飲み込めない私の口の端に彼の白くて細い指が当てられる。「また赤くなった」となぞるその手つきはまるで恋人同士がするようなものに思え、拘束具もないのに指先ひとつ動かせなくなってしまった。

 君にはあげない。その言葉だけが私の目の前をぐるぐる回る。受け取ってもらえたという事実は嬉しいけれど受け取るタイミングが理解できない上にそもそもあれはもう廃棄物だ。首に巻いたところでほつれてくるだけの代物を彼は一体何につかうというんだろう。そんな私の疑問に答えるように、彼はごく当たり前のようにそれを首に巻き出した。そして当たり前のように知らず知らず固く結んでいた掌をこじ開けて何かを置く。ぎこちなく視線を移せば、それは雲雀さんのブレスレッドを縮小した指輪だった。銀色に光るその中心には今指にはまっているものとは違う、紫色の鉱物が埋め込まれている。


 どうしよう。そんな私の思いを見透かしたように彼はそう言って私の首に手を回す。冷たい指が首に触れ、ぷちんと音を立てて慣れたネックレスが私の首から外れる。5年もの間一度も外していないハーフボンゴレリングのレプリカは、5年ぶりに元主のもとへと戻る。彼は当たり前のようにその指輪をチェーンから外し床に投げ捨てた。ごとり、と音を立てたそれは落ちた衝撃で結合部分が割れ、もうレプリカとしても機能しなくなってしまった。


「ボンゴレギア」唐突に雲雀恭弥が言った。
「ボンゴレギア?」なれない名前に復唱すると、彼は面倒くさそうに眉根を寄せる。2回も言わせるなとでもいうような表情に従って三度目の言葉は飲み込んだ。ボンゴレギアというのはこのブレスレッドになったボンゴレリングの名前なんだろう。それは分かる。でもしいて言えば、それだけしか分からなかった。彼のしたいことも思っていることも、こんなに近くにいるのに少しだって見えてこない。


 唖然とする私など意にも介さないように彼は淡々と私の手に乗せたままの指輪を取るとチェーンに通す。そして外した時と同様に首に手を回す。付けるのはあまり慣れていないのか距離が狭まる。息の温かさまで感じる距離の中で、私は動くことも声を出すこともできないでいた。ぷちと小さな音を立てたのを境に雲雀恭弥の手が首から離れる。慣れたものよりも少しだけ重みが増したネックレスは、再び私の首にかかった。さして距離を取らないまま雲雀恭弥は口を開く。それは相変わらず名を考えているかわからない表情だったけれど、私がみてきた雲雀さんよりも少しだけ大人びて見えた気がした。


「あげる」


 彼はそれだけ言うと私の首に手を伸ばす。付けるときに曲がったんだろうボンゴレギアを鎖骨の間に戻し、そのまま首に手を這わせる。瞬間、パリンという小さい音が下から響いた。雲雀さんが私の手首を捕まえて持ち上げると、霧のリングの藍色の鉱石部分が粉々に砕けているのが見えた。私に身にまとっていた服が藍色の霧となって部屋に溶けこんでいく。あとに残ったのは、私が予め着ていた何の変哲もない部屋着だった。


「ようやく壊れた」なんでもないように彼は言う。
「どうして」と思わず呟くと、彼は口の端をわずかに押し上げた。


「君の体に僕の炎を少しだけ流し込んだ。霧の炎なんて見たくもないからね」
「…あ、ありがとうございます」

 彼は私の声を聞くと怪訝そうに眉をひそめた。そしてその昔白蘭につけられた傷跡をわざとらしくなぞる。冷たい感覚に思わず目を瞑る私の耳に、彼の笑い声のような息を吐く音が聞こえた気がした。


「君にお礼を言われるようなことはしてないよ。幻覚だって服以外は少し前から解けてたしね」
「え…?」

「ねえ、名前」



 少し前から幻覚が解けていた。それが意味する所は唯一つ、私が彼への思いを否定しなくなったということだ。呆気にとられる私を放って、雲雀恭弥は随分と久しぶりに私の名前を口にした。普段とは違う甘い響きが孕んでいる気がするのは、私の錯覚なんだろうか。彼の手がようやく首から離れ、ふたたびネックレスに戻る。その瞬間、雲雀さんのボンゴレギアが紫に光り、私のネックレスにも広がった。その瞬間、体が誰かに抱きしめられているように暖かくなっていることに気づく。ネックレスを見れば、レプリカだと思っていたボンゴレギアを模した銀細工の中心部分が淡く紫色に光っていた。全身に彼の炎が回っていると理解するまでに、かなりの時間を要してしまった。


「また霧属性になったら、今度こそ咬み殺すからね」


 彼はそう言うとようやく炎を収めた。そして大きくあくびをすると「眠い」とひとりごちる。慌てて扉からどくと、彼はうつろな目で私を追う。私が扉からどいた意味を数秒かかって理解したのか、彼は面倒くさそうに伸びをした。「いい、ここで寝る」と言うやいなやスーツを脱ぐ彼に焦ったのは私だった。ワイシャツになった彼は珍しくそのまま私のベットに寝転ぶ。とっさに退室しようとした足を、いつの間にか出てきていたロールが止めた。ドアノブは小さな球針態でうめつくされ、とてもじゃないがひねれる状況じゃない。しかたなく手を引っ込めると、ロールは嬉しそうに鳴いて枕代わりとでも言うように座布団を引きずろうとする。ベッドの上の雲雀さんはよっぽど疲れていたのか、すでに寝息を立てていた。



「……しょうがないか」


 雲雀さんを起こさない程度に呟いて、部屋の四隅に置き去りにしていた厚手のひざ掛けを引っ張りだす。少し寒いかもしれないけど、無いよりマシだ。雲雀さんに布団がかかっていることを確認し、私はロールの運んでくれた座布団を枕にして寝転がる。すかさず腕の中に入ってくるロールに、思わず苦笑してしまう。ヒバードに目をやれば、二匹で寄り添って机の上で眠っていた。ペットは主人に似るというけれど、ロールはその枠には当てはまらないのかもしれない。そう思いながら、そっと針のない頭に触れる。クプゥと大きなあくびをしたロールは一度だけ私の指に擦り寄り、直ぐに眠ってしまった。前言撤回、やっぱりそっくりだ。



 大勢になった部屋の電気をリモコンで消し、毛布をかぶる。ベッドの上の雲雀さんの顔は見えない。けれど巻いたままの黒いマフラーが布団からはみ出してるのが見え、なんとも言えない気分になる。未だに彼の真意がわからない私は、只々彼に翻弄されるだけだ。


 暗闇の中でそっと目を閉じる。ちょうどその時部屋の電子時計がピッと一度だけ鳴り、日付が変わったことを知らせた。「クリスマスだ」思わずついてでた言葉に寝覚めてしまったのか、ベッドの上の雲雀恭弥が寝返りを打った。何度見ても萎縮してしまうほど細められた三白眼が眠たげにこちらを見る。焦った私が謝罪の言葉を口にするのを遮るように、雲雀恭弥の声が重なった。



「恭弥」


 彼はそれだけ言うと、またパタリと目を閉じて寝息を立ててしまう。寝言にしてはやけにハッキリとした口調に思わず苦笑する。まるで恭弥と呼べとでも言うような彼の言葉が熱をはらむ。そもそもこんな状況で眠れるわけがないじゃないかと心の中でひとりごちながらネックレスを取り出す。注入されたばかりなせいか、真ん中の紫色の石は光源のない部屋の中でも淡く光っている。綺麗。今度は言葉に出さずに心の中だけで呟いて、もらったばかりの指輪を握り締める。恭弥と名乗った彼の声が、脳裏から離れない。

 恭弥と出るはずの言葉はすんでのところでため息に代わり、薄暗い部屋に白い息として広がる。閉めきったカーテンの奥は予報通り雪が降っているんだろうか。そんな事を考えながら私も彼らに倣ってそっと目をつむった。「名前」雲雀さんの声が響く。私はその声に背を向けて、代わりに彼がくれたプレゼントを強く強く握りしめる。好きだ、と心のなかで思ってみると、その言葉はやけにしっくりと自分の中に収まってしまった。





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