「流水麺!」
チャイムが鳴ったので戸を開けたいま、もう閉めたい。欲望のままに戸を思いっきり引いたが、締め切らないうちに止められた。
「おい!?家主!俺が家主!」
「神聖な時間に騒々しい」
「それが神聖な行いをしてきた俺に言うセリフか」
「年末も年末ってときに……また銀さんとこにでも遊びに行ってたんでしょう、お邪魔虫」
桂は冷気を連れて入り込んできて、まっすぐ洗面所に向かい手を泡立てて洗う、イソジンでうがいをする、私に向き合うのはそれからだ。
「お邪魔虫とはなんだ!俺は松陽先生の教えに倣って、あの、あれ、年越し蕎麦の流水麺をだな」
「そういうのをお邪魔虫と言います」
「今年も世話になった挨拶だろう」
「はいはいはい」
「まあ、待たせたのは悪かった」
とん、頭の上に手を乗せられて、その大きさがじんわり沁みてきたけれど、ぶんぶんと振り払う。
「お前は本当に、素直じゃないから、成長とか、そういうものがないな」
「はいはい」
「世を担っていく若者として、もっとこう、発展的な……」
詳しいことはよくわからないが、院にまで進んで生き物の進化や発展を学んでいる桂は、生命のそういう前向きな過去と可能性を愛しており、心から信じていて、そのせいで、ヒトという生き物に進化を期待するのはまだいいとしても、一個人にまで成長や発展をやけに見出したがるところがある。そうすれば日本にも明るい明るい陽がさして、地球も明るく明るくなると思っている、賢い馬鹿である。
私のようなぐうたらでできるだけぼんやりのんびりしていたい人種としては、こういうポジティブで活力に満ち溢れた人は、きっと天敵になるんだろうし、それだけど私は、その天敵を、馬鹿みたいに素敵だと感じてしまうから、どちらかといえば、生き残れずに絶えゆく種なんだと思う。詳しいことは、わからないけど。
「でも私だって神聖な気持ちで来年を待ち構えてました」
「ふうむ、それも、また良しか!」
ちょっと思案してにっこり笑ったその頭がどういう思考回路を巡ったのかわからないが、またよしよしと言う手が頭に乗ってきて、今度は黙って受け入れた。本当は、ちょっと浸れるくらい、私はこの時とこの手が好きだ。
「というか、流水麺!」
「……」
ちゃちゃっと用意された蕎麦を、流れに乗せられ(流水麺とかけているわけではない)ずるずると啜り、かなり盛り上がってきた歌番組を横目にみかんを剥き始めてやっと、桂の足も崩れてきた。せわしないこの人のペースにも、だいぶん慣れてきたものだ。
「名前」
「ん」
「またそんな、気の抜けた返事をしおって」
柔らかく笑いながら、おもむろにテレビを消した。静まる部屋、ゆっくり立ち上がってこちらに向かってくる桂に、まったりし始めた心臓が反応する。え、なになに。見上げたら上から手が降りてきて、頭を撫でないでもっと降りてきて、え、え。
「名前……いくぞ」
「な、なにが?」
「出しに行くぞ」
「……へ?」
「お前の鞄から覗いているものはなんだ」
「あーあ、出し忘れてた」
「出しに行くぞ」
「今から!?いや!!」
「あれは、新年の挨拶だ。新年を迎える前に出すものだ」
ぎゅうと握られた手を引っ張られ、やっとのんびりし始めたのに!?という私の非難をものともせず、てきぱき厚着をし始めた。帽子を被せられたあたりで私も観念する。せわしないこの人のペースにも、慣れてきたと思ったけど、まだまだだ。
外は雪が舞っていた。面倒臭さと鼻が取れそうな寒さに、恨みがましく鼻をすすりながらだらだら歩いていると、初詣のために神社に向かう流れにぶつかったあたりで、相合傘をしている懐かしい二人組が見えた。思わず手を振ると、振りかえしてくれる。
「うちのご近所さん。可愛いでしょ」
「妙な空気だったが大丈夫なのか」
「あれでいいんです、可愛いでしょ」
「そういうものか」
「そういうもの」
あの二人、そろそろうまくいくのかしら。なんだか嬉しくなってきて、足取りも軽くなる。
「うーん、なんだか寒くなくなってきた」
「幸せなやつだ」
桂もにこにこ笑っている。ふと、傘を閉じてみた。落ちてくる雪がちらちらと視界を遮るのが、美しい。桂も傘を閉じた。男性にしては長い髪に雪をまぶしている。綺麗だ。
「お前はなんでそう、」
「進歩がない?」
「違う。些細なことで、幸せになれる。そうだろう?」
「そ、そうですか」
「ああ、そうだ。お前のそういうところは、俺には眩しいよ」
驚いた。思わず立ち止まってしまった。まさか桂がそんなことを。唖然としている私の頭の雪を、ぱたぱたとはたき、それから、撫でられた。柔らかく、温かく、大きい手が、じんわり沁みる。なんだか、嬉しくてしようがない。
「さて、帰ろうか。そろそろ年も明けるぞ」
「うん」
「そうしたら初日の出拝みだ!」
「……えええ、嘘でしょ!?」
「何を言う、新年初の陽を浴びずにどうする」
「雪だもん、見れないって!!」
「なあに、晴れるさ」
さも当たり前のように言うので、なぜだか、そうなるんだと思わせられる。この人が言うんなら、そうなんじゃないかと思う。
私はただ同じところでぐるぐると往生しているだけだと思っていた。進歩も発展もせず、ただただ。でも、私の大好きな手があれば、私、実はゆっくり、上昇しているのかもしれない。
さあ、また一段。