子守り猫、守り猫
 其の弐

ところで、トラには因縁の相手がいた。もちろん、鼠である。しかもコイツは屋敷に巣食う鼠の筆頭格で、やたら滅多らにデカイ。トラの半分ほどもあるのだ。闘えば常に痛み分けで、トラはその度に生傷をいくつも作ってそのたびに誰かに軟膏を塗られていた。
アイツは前歯が恐ろしい。
最近、厨で小十郎が手塩にかけた野菜がやたらにかじられるのはアイツの仕業に違いない。かじられた跡から大きさを察した女たちがぞっとした顔をするので早々にやっつけねばなるまい。
――トラがそう密かに闘志を燃やしているときにかぎって奴は現れなかった。
そして温かな陽光ふりそそぐある日のこと。
小十郎はいつも通り朝に出かけて、蔦はこまごまと働いている。トラは左衛門の傍でうとうとしていた。左衛門も猫に安心しているのかすぅすぅと眠っている。
――ふと、トラの茶色の三角の耳に、かさりというわずかな音が届いた。
トラはすっと目を開けた。左衛門が動いたのかと見れば、違う。
トラは辺りを見回す。すると、部屋の隅で何やら動いた。香箱を組んだままそこを見つめる。かさ、とやはり音がした。トラの背に緊張が走る。現れたのは、やはりむやみにデカイ、前歯の鋭い、筆頭格の鼠である。
何をしに降りてきたのか。ここにはかじって美味い物はほとんどない。
鼠がクンクンと鼻を動かす。ピクピクとひげの動く様を見て、自分のにおいに気付いて逃げだすかと思ったトラだったが、痛み分けしかしていない猫はヤツには脅威ではなかったらしい。そのまま、壁伝いに部屋を闊歩しだす。トラは苦々しい思いでそれを見つめ尾を振った。しかしコヤツ、何をしに来たのだ。
すい、と鼠がこちらを見た。だがトラの方は見ていない。
――左衛門だ、とトラは気づいた。
左衛門をかじりに来たのだ。この弱い生き物を。トラは香箱を解く。左衛門には身を守るすべがない。かじられればそれで終わりだ。トラは立ち上がって毛を逆立てた。だか鼠は気にした風もない。
カッカッ、とトラは鼠を威嚇する。左衛門を守ってやらなければならない。赤子は眠ったままだ。
鼠の前歯が見える。トラはシャーッシャーッと威嚇の声をあげたが、鼠は去らない。まっすぐ左衛門に向かってくる。
トラは飛び出した。空中に躍り出て鼠に襲いかかる。ドタン、と大きな音がした。
一撃で仕留められなかったが、鼠は驚いたようだ。床の上、左衛門から離れたところで取っ組み合いになる。トラの爪が鼠を襲い、鼠の前歯がトラをかじる。暴れたせいであちこちに二匹とも体をぶつける。ドタン、バタンと音が響く。いつもなら痛み分けを選ぶほどかじられたが、今日は引くわけにはいかない。
左衛門がかじられるのは嫌だ、とトラは必死になった。やがて鼠の首に噛みつくことができた。ごきり、と音がして鼠が絶命した。くったりと動かなくなった鼠をトラは荒い息のまま見下ろす。やがて、人の足音が聞こえてきた。
「きゃっ」
声をあげたのは蔦である。
その後ろから、いつの間に帰ってきていたのか小十郎がこちらを見ていた。
「デカイ鼠だな……、トラ、お前が仕留めたのか」
巨大鼠に戸惑う蔦をそのままにして、傍らに小十郎が屈みこんだので
「なー」
とやや疲れた声でトラは答える。小十郎が返答に僅かに笑った。
「よくやったな」
無骨な手が久々に頭を撫でてきて、トラはゴロゴロと喉を鳴らした。
そっと鼠をよけつつ、蔦も屈んできた。
「左衛門を守ってくれたのね」
「なぁー」
そう言うと蔦も撫でてくれる。夫婦にそろって頭やら背やらを撫でられて、トラはまた得意になった。
やがて目を覚ましたらしい左衛門が布団の上で手足をバタバタしはじめた。
「にゃっ、にゃ!」
左衛門はトラをそう呼ぶ。いつも傍にいるトラがいないので不思議に思ったのだろう。
トラは心地よい左衛門の父母の手から抜け出して、左衛門の傍に戻ると何事もなかったようにまた香箱を組んだ。左衛門が喜んで笑い、尻尾をつむ、と握ってくる。鼠の歯に比べれば優しい痛みなので、トラはじっと耐える。すると蔦と小十郎が笑うのが聞こえた。
「けがの手当てをしてやろう」
「はい」


それからしばらく後の晩。ここのところトラをちゃんと座らせてその真正面で薪に小刀を当てていた小十郎が
「できた」
と一言言った。見ればその手の中には木彫りの、やや不格好な猫がいる。
「まあ」
蔦が笑ってトラに示した。
「トラですよ、よかったですね」
トラはそれが自分だとは思えず、尾を振った。
だいたい木は食えない、と思っていると小十郎はそれを左衛門に渡した。左衛門はしばしそれをじっと見つめた後、にこにこ笑って
「とら、にゃー!」
と言ってそれをトラに見せつけてくる。父と母が笑った。
「さて私もできましたよ」
そう言って手元の糸を止めた蔦が布を広げて示した。
それは前掛けで、端に猫の刺繍がしてあった。
「上手いな」
という小十郎に笑って、蔦はそれを左衛門にかけた。左衛門は不器用に前掛けを掴み、母の縫ったトラを見つけてまたはしゃいだ。トラはそんな光景を見つめながら、うとうとと眠りについた。


――後年、前掛けは汚れて捨ててしまったが、左衛門は父のつくった木彫りのトラネコを大事にしたという。左衛門が名を変え、トラと呼ばれた茶色の猫が年老いて、どこぞヘ行ってついに帰ってこなかった後も。

(了)

 目次 Home

2010年9月19日初出 2010年10月19日改訂
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -