泥中の蓮
 其の参

家に帰りたくなければ、後家の家に転がり込めばいい。飯も食えるし、他の欲すら満たせることがある。今日はそんな気分だったので、馴染みの後家のところに向かう。
一時はそのまま転がり込むことも考えたが、あまりにみじめなのでやめておいた。それはどうにもならなくなった時の手段である。あまりどうにもならなくはなりたくない。髪結いの亭主よりもそれはみっともないというものだ。
訪ねて行けば後家は小十郎の腫れた口元を見ても
「まあ喧嘩したのね」
と笑うだけで心配すらしない。飯を食えば傷に染みたので、味わうことはせずにかき込むだけにした。その間に放り出した手拭いに後家が気付いた。
「あら、猫の手拭い。かわいいわね、どうしたの」
「どうでもいいだろ」
「あらぁ、少し湿ってるわね。可愛い子に手当でもしてもらったの?」
くすくすと笑う後家の声が今日ばかりは耳障りだ。小十郎は後家の手から手拭いを奪い取った。
「あら、当たったのね。どんな子? 気になるわぁ」
「関係ないだろ」
脳裏に自分の怒鳴り声に怯えた少女の顔がよみがえった。伸びた男たちとそれを打ち倒したばかりの小十郎には怯えなかったくせに、と胸の中で悪態をつく。少女が荷物を抱えてから立ち上がるまでのわずかの間に見せた横顔の、眦に涙が浮いていたような気がして小十郎は苛立った。乱暴に石畳へと放りだした自分に何故優しくするのか。それをおもって苛立ちが増す。
そんな小十郎の心中を知ってか知らずか、後家がすり寄って来た。触れられた所がぬめりとしたようで、小十郎は思わず身を引いた。
「今日はつれないのねぇ」
「そんな気分じゃねぇ。――寝る」
喧嘩のあとは気分が高ぶり、そうなるはず。後家もそれを知っている。だがそんな気分にならず、小十郎は女を遠ざけた。眠る直前、真摯な顔で絞った手拭いを顔に当ててこようとした娘の顔ばかりが浮かんだ。


その数日後――さすがにすぐにあそこに戻る気はしなかった――、社に行けば懲りたのかチンピラも子どもたちもいなかった。今日は念のために木刀まで持ってきたというのに。数日前から胸によくわからないしこりがある。いらついて髪をかきむしり、境内を進む。
半ばまで来たところで、さい銭箱の向こうからぴょこんと黒い頭が出てきた。そしてそれがこちらを向く。小十郎はそれを認識すると、呆れた。
「お前な」
「……」
例の少女だ。小十郎は歩み寄りつつため息をつく。少女が見上げてくる。まっすぐな瞳だ。
「危ないっていうのがわからなかったのか。手拭いなら忘れてきたぞ」
後家の家にではなく、実家にである。返さなくていいというので、文机の上に猫が見えるようにして畳んでおいてある。だが少女は首を振った。
「手拭いはいいの」
真摯な顔で、少女がきいてくる。
「もう怪我は大丈夫?」
「――そんなヤワじゃねぇ」
少女が歩み寄ってきて、ひょいと小十郎の袖を遠慮なしにめくった。小十郎はギョッとしてその手を振り払う。だが少女は丸い目で真剣に見上げてきた。
「色、薄くなったね。よかった!」
「馬鹿かお前は。勝手に見るな」
「だって」
「もういい」
小十郎は言って社の濡れ縁にあがると胡坐をかいた。すると少女もその隣にちょこんと座る。
「……、なんなんだよ」
「あのね」
言って少女は懐を探った。
「よかった。崩れてない」
ほっとしながら言って取り出したのは、懐紙に包まれた何かである。眉を寄せる小十郎の前で少女はそれを開いて見せる。小さな手の上に大きな饅頭が二つのっている。
「あのね、特別に二つ貰って来たの。一緒に食べよう?」
饅頭を二つ持って家を抜け出してきたのか、一体どうやったのやら――小十郎は少し呆れた。いい所の娘であれば甘味など珍しくないかもしれないが、餡のぎっしり詰まった饅頭など小十郎はここしばらく食べていない。貰って来たというが、大変だっただろう。まして外に持ち出すなど家中の者は眉をひそめなかったか。それか、この娘が日頃良い子にしていて疑われなかったかのどちらかだ。
「仕方ねぇ、貰ってやる」
ぶっきらぼうにそう言って、饅頭を取り上げる前に娘の頭を撫でた。娘はちょっとびっくりした顔をしたが、すぐに大輪が咲いたような笑顔になった。
はじめて見た少女の笑顔に、小十郎は気をひかれ――つい自分も久々に笑ってしまった。


「――あれか」
それを、遠くから見つめる者が二人。
「なかなかイイ感じでしょう。アレなら別嬪になること間違いなしですぜ」
下卑た声を出したのは数日前小十郎に二度も負けたチンピラの一人だった。もう一人はきちんと着物を着こんではいるが、どこか派手で堅気ではないことを感じさせる。
「着ているものが少し上等なのが気になるが――最近取り締まりがうるさくてな。いい稼ぎになっていないから選んではいられんな。極上とはいかんが、上玉になるのは確かだな」
「何日か前からここいらをウロウロしてる娘でさぁ。聞いて回れば野郎になついてるとかで」
「それで、お前さんはあの野郎にひと泡吹かせてやりたいんだな」
するとチンピラはニィと笑った。
「可愛がってる娘っ子を女衒にとられればさすがにあいつも土下座するさぁ」
「まあ、された所で返してはやらんがね」
派手な男――女衒、女の売り買いを生業とする男もまた、下卑た笑いをした。

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