泥中の蓮
 其の弐

――とは完全にはいかない。
チンピラが占拠していた社がある意味で静かになったため、子どもたちが出入りするようになったのだ。ひらけた参道は暗くとも、遊ぶにはもってこいだ。
だが皆、社のさい銭箱の後ろに座りこんで書物を読む小十郎には近づかなかった。子どもの本能というやつだろう。小十郎のほうも、騒がしいのはたまに耳についたが子どもたちが“住み分け”をしてくれているので出ていけと言ったりしなかった。
そんな日々が続いたある日。
例によって兵法を頭に叩き込んでいた小十郎の頭に、ぽこーんと物理的な衝撃が走った。
「――っ」
小十郎に衝撃を与えたそれはぽーんと彼の横合いに飛ぶ。毬だ、と小十郎は気づいてそれが当たったところを撫でた。
「ごめんなさい!」
さい銭箱の向こうから鈴を転がすような声が聞こえた。見れば、今までの子どもたちとは異なる、少しだけ身なりのいい恰好をした少女がこちらを見ている。その横には、弟だろうか、こちらも他と比べて仕立ての良い着物を着た男児がおろおろとこちらを見ている。
「藤兵衛も、ほら」
「……ごめんなさい」
少女は年のころは10くらい。藤兵衛と言われたほうは5つか6つくらいだろう。
小十郎は脇に転がる毬を取り上げてぽんとなげた。藤兵衛がそれを上手に受け取る。
「球遊びなら向こうでやんな」
小十郎はそれだけ言うと邪険にするように手を振った。少女と少年が揃って頭を下げる。随分しつけがいい、と小十郎は柄にもなく感心してしまった。あたりを見れば、その辺にいる継ぎの当たった着物を着る子どもたちとはやはり異なる印象を姉弟から受けた。なにしろ顔は洟で汚れてはいないし、衣服も清潔だ。
どこぞのいい所の子弟だろう。何故こんな所にいるのかよくわからないが、子どもというのはそういうものだ。小十郎は勝手にそう結論付けると兵法の書に戻った。
――だからしばらく書に没頭して、いつの間にかその少女が傍らから小十郎の書を覗き込んでいたことに気付いた時にはさすがに驚いたものだ。
ちょこんと正座をして小十郎の持つ書を好奇心いっぱいに見つめる少女に思わず半身を引くと、少女は黒目がちな瞳で見上げてきた。片膝をたててそこに腕を預けていた小十郎は胡坐を組む。
「何してんだ」
「お兄さん、何読んでるのかなと思って」
「悪いがガキが読んでも面白いものじゃねぇぞ」
「でも、知ってるよ。『孫子』の兵法でしょう? 有名だもの」
「そうかい」
『孫子』の兵法は兵法書の中でもっとも著名なものだ。たがらこそ小十郎は幾度もこの書を読んでいる。戦をそれだけでなく国の政と関連付けている所も好きなのかもしれない。だが孔子の『論語』はともかく――それだってアヤシイが――、『兵法』を下々の子どもが知っているとは思われないし、知っている必要もない。だがこの少女は字も読めるようだし、やはりそれなりの家の娘だ、と小十郎は確信した。
「嬢ちゃんは勅撰の和歌集でも読んでな。それと、弟はいいのか」
「藤兵衛なら大丈夫。みんなと一緒だもの」
そんなものか、と小十郎はぼんやり思った。
子どもというものは不思議なものだ。遊んでいるうちに相手の身分など気にしなくなる。ふと顔をあげて見やればきゃっきゃっと子どもたちが毬を投げて遊んでいる。
「あのね、父上が兵法で一番大切なのは『三十六計逃げるに如かず』だって言ってたよ」
そんな彼に少女がうかがうように言ってきて、小十郎は爆笑した。
「そりゃあ『孫子』の兵法じゃねぇよ。もっと後の奴が言った言葉だ」
言うと、少女はシュンとした。別に知識をひけらかしたかったわけではないだろう。小十郎と会話の糸口を見つけたかったのかもしれない。ふと少女が父親のことを「とうちゃん」ではなく「おとっつあん」でもなく「父上」と言ったことに、やはりこの娘はいい所の子だ、と小十郎は思う。
「だが面白い親父さんだな。良く覚えとけ。お嬢ちゃんみたいなのには大切だ」
くつくつ笑いながら言うと、少女は首をかしげた。
「どうして?」
「嬢ちゃんは女だろう。逃げた方がいいこともある、ってこった」
「……ふうん」
少女はよくわからない、といった感じで首をかしげた。小十郎はそれを見て再び書に目を落とす。
飽きればどこかに行く、と放っておいたがしばらくして少女はなにを思ったか書を覗き込んで横で音読をしはじめた。小十郎は横目で睨みつけたが少女は気づかない。しかも時折間違って読み上げる。
ぷち、と音を立てかける緒をぐっとしばり、小十郎は書を脇へ放った。
「向こういけよ」
そうは言ったが、少女が動くより早く小十郎は次の行動に移っていた。ぐいと襟首をつかみ、反動をつけてぽいと濡れ縁から少女を放り出した。だが尻から着地できるようにしてやるだけの理性は残っていた。
「きゃっ!」
少女が悲鳴をあげて石畳の上に落ちると遊んでいた子どもたちが一斉にこちらを向いた。
「いた……い」
「あねうえ!」
遊びの輪から少女の弟が飛びだしてきて、放り出されてへたり込む姉の側に屈む。少女はその間に手のひらを天に向けて開いていた。
「けがしてる!」
弟が悲痛な声をあげた。着地するときに手をつき擦りむいたのだろう。
「……。大丈夫よ、擦りむけただけ」
と言う少女の脇で幼い弟がギッと小十郎を睨みつけてきた。遠くにいる子どもたちも小十郎をうかがっている。小十郎は半眼で弟をギロと睨み返した。健気な弟がひるんで、かわいそうに目をそらす。
「――ふん」
言って小十郎は社の濡れ縁にどかりと腰をおろし不機嫌に膝に肘をついて顎を乗せた。


しかし翌日も子どもたちは境内で遊んでいた。さすがに住み分けの境界線は遠くなったが、ひらけた場所を手放すのは惜しかったとみえる。けれどもあの姉弟の姿はない。凝りたか、と小十郎は思った。
だが。
その数日後あたりから、小十郎は境内で少女とその弟を再び見かけるようになった。弟の方はともかく、少女に積極的に遊ぶ様子はなく、自分より幼い子供たちを見守っているようなところがある。大方、弟やその他の子どもたちの子守りを任されたのだろうとふんでいる。
そこに居場所がないはずはないのだが、少女は社に来るとなぜかあの時乱暴にした小十郎の近くに座ることが多かった。少し離れた所で正座して弟を見守っているときもあれば、濡れ縁に腰掛けてぷらぷらと足を遊ばせていることもある。そして時折、小十郎をうかがっているのか、観察しているのか、じっとまっすぐ小十郎を見つめてくる。
その視線に居心地の悪いものを感じたが、あれ以来ちょっかいを出すのは懲りたのか一定距離以上近づいてこないので小十郎は放っておいた。ふと一度弟の方を見たことがあったが、複雑そうな視線を遠くから投げてきていた男児はあわてて目をそらした。
それが普通の反応だよな、妙な子どもだ、と少女に思う。
――……、珍獣扱いか?
育ちのよさそうな娘を見てふとそう思いつき、腹が立ったがあたり散らすわけにもいかなかった。
一度だけ、ぐうと小十郎の腹が鳴ったときに少女が意を決したように話しかけてきたことがある。
「お兄さん、お腹すいてるの」
「うるせぇな」
だが小十郎は取り合わず、少女に背中を向けた。


そんな日々が続いたある日のこと。昼過ぎにいつもの場所へ行けば、珍しく子どもたちの姿がなかった。飽きて場所を変えたか、と小十郎は思う。だが、違ったようだ。
「よう、この間はよくもやってくれたな」
境内を進めば、いつぞやのチンピラ達がそれぞれ手に棒を持ち小十郎を待っていた。
小十郎はため息をつく。子どもたちがいなくなったのはコイツらが戻ってきたからだ。
「意外に、装備を整えるのに時間がかかったらしいな」
「だがそっちは丸腰だ――覚悟しなッ!」
5人が一斉に飛びかかって来た。腕を顔の前で組んで、体をひねり棒きれを避ける。腕を強か打たれたが、力の入れ方がなっていないのと体をずらしたので痛むだけで負担にはならない。
ぐっと飛びのいて間合いを保つ。そのまま飛びかかってくればいいものを、チンピラどもも間合いを測るという間抜けな選択をした。
「兵法の応用――するまでもないな」
小十郎がそういうと、バリ、とあたりが帯電した。
「な、なんだ……」
晴れているのに聞こえた雷の音に、チンピラたちが気をとられた隙だった。小十郎は手近な一人を選んだ。雷を纏った拳が男を襲い、またしても男は吹っ飛んだ。からん、と男が手放した棒きれが地面へと落ちる。小十郎はそれを蹴り上げて左手でパシリと受けとる。
それを顔の前で構え、不敵に笑って見せる。バリ、と雷撃の音があたりに響いた。
「体が鈍る、と思ってたところだ――来な」
残された4人が、挑発に乗った。
雷神を招聘し、雷撃を操れるようになったのはいつのことだったか。常人にはないこの能力もまた、小十郎を苛立たせるものだったが――今日は気分のいい方に使えそうだ、と小十郎は嗤う。


しばらく後――結果チンピラどもは再び這いつくばることになった。だが今度は小十郎も無傷とはいかず、口の中に不快を感じて唾を吐きだした。口の中が切れたらしい。吐き出したものに血が混じっていた。
「ふん――」
棒きれを投げ出せば、カランと音を立てて転がっていく。暴れたために体中の血が沸騰して書を読もうと思っていた気持ちはどこかへ行ってしまった。足元で伸びている男たちも気に食わない。小十郎は境内を出ようと踵を返して――動きを止めた。
幾日か前、書を覗いてきたあの少女が鳥居の向こうに立ち尽くしていた。
「なに、してる」
言いながら見れば少女は大きな包みを抱えている。
「……お使いの帰り……」
やや茫然とした口調で少女が言った。
――見られたのだ、と小十郎は思う。
「お兄さん、喧嘩するんだ……」
「悪いか?」
小十郎は肩を怒らせて歩き始めた。鳥居を抜け、少女の横を抜ける。
「早く帰んな。あと、弟たちに遊び場を変えるように言うんだな」
見せてはいけないものを見せた、見られてはならないものを見られた、そんな気分になり口調が悪くなる。ぽいと放り出されはしたが、書を読むだけの男だと少女は思っていたかもしれない。少女ははじめの喧嘩は見ていないのだから。お育ちがよさそうなお嬢ちゃんだ、きっともう会うこともないだろう、と思ってつかつか歩けば、とことことついてくる足音がして小十郎は振り返る。
「……ついてくんな」
「……でも、お兄さん怪我してる」
言われて小十郎はため息をついて立ち止った。少女が駆け寄ってくる。
「父上が、最近ガラが悪い奴が出るって言ってたの。……あの人たちかな」
「さぁな。知らねぇ」
ぶっきらぼうに行ってまた踏み出そうとすると、袖をとられた。
「……なんだよ」
「あっちに小川があるよ。わたし、手拭い持ってるし冷やそう?」
臆する様子なく首をかしげてそう言われて、小十郎は唖然とした。なんだか逆らえる気がしなくて、小十郎は袖をひかれるままに少女に従った。
小川につくと少女は手際よく手拭いを湿らせ、しっかりと絞った。そしてそれを小十郎のやや腫れている口元に当ててこようとするのでグイと手拭いを握る。
「自分でできる。ガキじゃねえんだ」
すると少女は素直に手拭いを手放した。ひいやりとした手拭いを当てれば、口の中の傷も少し良くなった気がする。手拭いを顔に当てた拍子に袖が下がった。「あ」と少女が声をあげる。
見れば、最初の一撃を受けた部分の腕がドス黒くなっていた。小十郎は舌打ちして顔からそちらへと堅く絞った手拭いを移動した。少女は何も言わないが、心配そうな顔でちょこんと座っている。やっぱり変な子だ、と思う。
「――手拭いはそのうち返すから、もう帰んな」
「別にいいよ。それ、ちょっと端が解れてるから途中で破れたって言えばいいから」
見れば本当にそうだった。頭の回る嬢ちゃんだ、と小十郎は感心するとともにため息をついた。その間に少女は懐紙を取り出して、血のにじむ小十郎の口元を拭おうとしてきた。それを乱暴に払って小十郎は明後日の方向を睨みつける。
「そうかい。じゃあ帰んな」
「でも――」
「帰れって言ってるんだ!」
いらついた口調で言えば、始めて少女が怯えた表情を見せた。それから少女は傍らにおいていた荷物を取り上げてぱっと立ちあがった。そしてぱたぱたと向こうに駆けていく。
その後ろ姿になぜか罪悪感を感じた小十郎はまた舌打ちをして――手拭いに目を落とした。広げてみれば藍染の絵手拭いで、白抜きで猫の模様が描かれていた。

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