氷解
 其の七

その夜。左衛門がぐっすりと眠りこんでいる間に、小十郎は蔦に湯あみをするように言った。今日一日で疲れたであろう妻を休ませたかった。蔦は夫より先に湯を使うことに少し戸惑ったようだが、小十郎が重ねて言うと従ってくれた。居間に書見台を持ち込んで、眠る左衛門の傍らでしばらく過ごす。やがて左衛門が目覚める気配と――同時にぐずりだす気配がした。
小十郎は書から目を離し、息子に目を移す。その間に、左衛門は泣きだしていた。
大粒の涙を流して手足を精いっぱい伸ばして泣く我が子に小十郎は戸惑った。
「おしめか、腹が減ったか?」
だが調べてみてもその様子はない。母恋しか、と思えば違うような気もする。
「どれ、お前も疲れたのか?」
小十郎はひょいと小さな布団の上から息子を抱きあげた。あんあんと泣く息子の泣き声はどこか疲れを感じさせるように聞こえる。
「よしよし……ちょっと無理させちまったか」
政宗に愛姫、成実に綱元、それと喜多まではよかったが、城仕えのものたちにも抱かれたし、鍛錬所では男どもに囲まれた。あのときは度胸を見せるようにきゃっきゃっと笑っていることが多かったが、それでも左衛門は赤子である。夢で何か見たのかもしれないと心配になる。
あんあんと泣く息子に、小十郎は重定や白髭の老爺を思い出して体をゆすぶった。
「どーれどれ」
なるべく優しい声を出す。慣れない大きな手に抱かれて左衛門は一時泣き声をより大きくした。引きつけを起こさないように落ち着かせようと肩に寄りかからせて背中をたたく。このごろは蔦がよくそうしているのだ。やがて泣き声はひっくひっくというものに変わってく。トン、トン、トン、という背中をたたく一定の間隔に落ち着きを取り戻したのだろう。
落ち着いてきた息子の顔を見ようとひょいと横抱きにすれば、涙と鼻水とでぐちゃぐちゃである。それでも泣き叫ぶよりはずっとよくなっている。小十郎は懐紙を取り出して、それをぬぐってやる。紙の感覚が嫌だったのか左衛門が父の手をつかんだ。
「ああ、こういうときは手拭いか」
それから左衛門の布団の横にあった手拭いを取り上げて顔を綺麗にしてやる。
すると左衛門も落ち着いたのか、ぐすぐすと鼻を鳴らしてはいるものの泣きやんだ。
小十郎が思わずほっとして笑いかけると、つられるように左衛門があーと言って涙の跡をつけたまま笑いを返してきた。蔦や家人、他の人に対して笑うのは良く見るが、自分に笑い返されたのは初めてで小十郎は驚いた。
父が驚いている間に左衛門は手をのばして小十郎の左頬の傷をぺちぺちと叩いた。左衛門の昼間の政宗と髭の老爺への反応を思い出して、小十郎は息子に語りかける。
「お前、人の顔に少し違うものがあると気になるのか」
「うー? う!」
返事をされたようで、小十郎は声を立てて笑った。
「お風呂お先にいただきました――あら」
そこへさっぱりした表情の蔦が戻って来た。小十郎は左衛門を抱いたままそちらを見た。
「おう」
蔦が入口に立ちつくして、こちらを見ている。
「……、なんだ?」
「いえ、小十郎さまがご自分で左衛門を抱きあげたのは、はじめてではないかと思いまして」
驚いてはいるが優しい顔で蔦はそう言った。言われて、小十郎は初めて気付いた。
「ああ――そうだな」
小十郎が息子を抱いたのはまだ数が少ない。しかもそれは主に蔦から、あるいは人から手渡されたときばかりだ。自分で床から抱きあげたのは初めてだ。気付いて、小十郎は自分でも驚いた。
蔦がそっと左衛門を抱く小十郎の傍らに座った。湯上りで淡く染まった頬が美しい。
「あら左衛門――父上にあやしてもらったの?」
さすがは母である。泣きやんだというのにすぐに先ほどまでの様子に気づいていた。左衛門は目をぱちぱちさせる。
「まぁ、すっかりお目覚めね。それじゃあ父上にお風呂に入れていただく?」
蔦が言うと「あーう!」と左衛門が言った。
「風呂って……入れたことないぞ」
戸惑って小十郎が言うと、蔦は夫を見た。
「お手伝いいたします。少しまたぐずるかもしれませんが、お湯は好きなようなので大丈夫ですよ」
「そうか?」
「はい、お湯をぱちゃぱちゃ言わせますよ。とってもかわいいです」
蔦は勇気づけるように小十郎に笑いかけた。その笑みに覚悟を決めた小十郎はやや緊張の面持ちで立ち上がり、居間を出た。蔦もついていく。


――しばらく後、慣れぬことをしてすっかり疲れた小十郎と、慣れぬ父の手つきにこれまた疲れた左衛門は水気をふき取り寝間着姿になって並んで横になると、すぐに眠りに落ちた。
妻であり母である蔦はその寝顔が――父子なのであたりまえだが――妙に似ていることに笑みを誘われて、飽くことなくいつまでもその寝顔を見つめていた。



さらに数ヵ月後、雪が解け、左衛門がうつ伏せから自力で頭をあげたり、抱かれたままとび跳ねたりできるようになった頃――伊達政宗は戦を再開した。
「羽州のgentlemanがヤケに腹の立つletterをよこしたぜ」
母方の伯父からの挑発ともとれる書状を契機に政宗は奮起し、目標を新たにした。弔い合戦は終わった。これからは政宗は己がために戦うのだ――小十郎は若い主に満足する。
「この小十郎が何処までも共に」
「Ha! 左衛門がテメェの顔忘れる前にまずは奥州だ――その後天下へ打って出る。
小十郎、俺の背中は任せたぞ」
「は!」
政宗はそこで馬に飛び乗った。馬上で腕を組んで辺りを左目だけで鋭く睥睨する。
見渡す限り、あたりを埋めるのは青い装束を着た男どもと馬だ。
「Are you ready guys!」
政宗があらん限り声で叫ぶと、地響きのような応えが起った。
「Partyの始まりだ! 一気に天下までついて来れる奴だけついてこい! 振り落とされるなよ!」
政宗の馬が後足で立ち上がり、嘶きをあげた。そのまま走り始めた政宗の後に、小十郎が続き、そのまま一群が続いていく――ようやく渇き始めた地面から砂埃が上がった。
独眼竜、伊達政宗の名が奥州筆頭として日の本に響き渡るのは、それから間もなくのことである。その独眼竜の背には「彼の者もまた竜」と言われる竜の右目と綽名される男が常にいることもまた、自明であった。

(了)

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2010年10月2日初出
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