氷解
 其の五

久々に良直さんたちに会いとうございます、と主の前を辞した後蔦は言った。小十郎は眉を寄せて
「女と赤ん坊の行く所じゃねぇ」
と言ったが左衛門を抱いた蔦は首を振った。
「御迷惑をおかけしました」
よく畑を手伝ってくれる良直、左馬助、孫兵衛、文七郎の四人は成実の捜索隊に真っ先に加わり、雪の中一番危険な山狩りまで行った――と聞いている。小十郎も謹慎が解けてから机と向かい合う務めにばかり追われていたので、そういえば彼らの顔を見ていないことを思い出した。
「――鍛錬所にいるだろう。あんまり気分のいいところじゃねぇぞ。いいのか」
「はい」
蔦はいつも淀みなく答える、と小十郎は思った。
城の廊下を妻を連れて歩けば、すれ違う同僚や侍女たちが足を止めて道を開けた。それにひとつひとつ頭を下げながら足を進める。いつもならすぐに行ってしまう同僚たちが、じっと背中に視線を注いできて居心地が悪い――この視線が蔦と左衛門にも注がれているのにも気付いたが、廊下の向こうや開けられた戸の向こうなど四方八方からも見られては妻子をどうかばったらいいのか小十郎にはわからなかった。しかもあまり良い視線ではない。ジトジトとしており居心地を悪くする視線だ。小十郎がぐっと拳を作った、その時だった。
「小十郎さま」
蔦が不意に立ち止まった。やはり気に障ったのか、と思って立ち止まると蔦は困ったような顔をしている。
「私、少しくたびれてしまったようです」
「そうか……。体に障る。どこか一室お借りして休ませてもらうか、俺の部屋に――」
小十郎が蔦の体に腕を添えてそう言うと、蔦は首を振った。つややかな黒髪が揺れる。訝しげな顔をした夫を妻はまっすぐ見つめた。
「腕が少しだけ、です。そんなに大げさなものではございません。小十郎さま、左衛門を少し預かっていただけませんか」
「――」
小十郎が何か答える前に、蔦が息子を差し出した。反射的に抱き取ると、息子の方も抱かれる腕と景色が変わたせいかきょとんとしている。
「ああ、ずっと抱いていたから腕がだるくなってしまいました」
蔦は妙に大きな声で言って、ぐっと腕を伸ばした。それから指先を組んで、手のひらも伸ばす。こきり、と小さな音がした。
「左衛門、どんどん重くなっているでしょう?」
左衛門の白い衣に手を置いて、蔦が見上げてくる。小十郎は左衛門と蔦をかわるがわる見つめた。左衛門は横合いから、しかも少し低い位置から母が覗いてきたのが珍しいのかきゃっきゃっ、と足をばたつかせた。小十郎と蔦がそれに思わず笑うと、
「おお」
と前方から声がした。
見れば、輝宗の若いころから城に仕えている男がこちらに向かって歩いてくる所だった。白い髭を蓄えた彼は、重臣ではないものの古株に当たる。
「これは――通行の邪魔を」
小十郎が慌てて道を開けようとすれば、にこにこと髭の老爺は手をあげた。
「片倉殿、構わん構わん。その赤子が左衛門殿ですかな」
とことこと歩み寄って来た好々爺は目を細めて左衛門を見やる。小十郎が是と答えると、髭の老爺はますます目を細めた。
「母上と父上が笑っておるから上機嫌とみえますな。どれどれどれ」
老爺はさらに近寄って小十郎の腕の中を覗き込んだ。左衛門が突然現れた髭面にびっくりしたように目を見開く。政宗の眼帯以上の衝撃が彼を襲ったらしい。あうあうと声をあげて老爺の顔にしきりに手を伸ばす。そしてぺったぺったと老人の顔をたたく。
「すみません!」
蔦が言うと「よいよい」と老爺は笑った。
「少し大きな孫が宅にもおりますが、このくらいのころは私の顔を見ると火がついたように泣いたものです。片倉殿の御子息は度胸が座っているとみえる――どうれ、このじじにも抱かせてはくれませんか」
小十郎が戸惑っていると蔦が「ええ、どうぞ」と言った。小十郎は腕を差し出した老爺にぎこちなく左衛門を渡した。孫がいるという老爺は上手に受け取ってくれた。
「ほほう、中々に重いぞ。父上なら軽々、母上にはどんどん辛くなっていきますなぁ。
どれどれ、じいじにございますよ、左衛門殿」
体をゆさぶりながら楽しげに話しかける老爺に小十郎は慌てた。
「じいじ、なら矢内殿のことです。妙なことは教えないでいただきたい」
「はっはっはっ、たった一度で左衛門殿が間違えるとは思えませんな。まったく片倉殿は冗談が通じない」
からからと笑う髭の老人の言葉に、傍らの蔦がくすくすと笑い口元を袖で隠した。
「蔦」
「――申し訳ありません」
それでもくすくすと笑う蔦に小十郎が眉を寄せる。そこへ、女の「すみません」という声がかかった。振り返れば喜多より年嵩の侍女が二人の若い侍女を従えている。
「これは申し訳――」
蔦の体を引き寄せて再び道を開けようとすれば侍女たちは微笑む。
「この子らが左衛門殿を抱いてみたいと。構いませぬか」
白髪の目立つ侍女はそう言って若い二人を示した。若い侍女たちは口々に言う。
「このくらいの子が家にいるのです。しばらくあってなくて――」
おそらくは末の弟妹、あるいは甥姪のことだろう。小十郎が迷っているうちに答えたのはやはり蔦である。
「構いませんよ。多くの人に抱かれると強い子になると聞いております」
すると若い娘たちはきゃあと声をあげた。髭面の老爺がその片方に左衛門を渡す。二人は赤子を覗き込む。きゃーあ、と左衛門が高い声をあげると娘たちはぱっと笑う。
「城に赤子など、久々のことですね」
白髪の目立つ侍女が言うと、髭の老爺が言う。
「まったくですな。いやはや、子どもというのはいつも可愛らしいものです」
とろけたような表情で言う老臣と侍女に、小十郎と蔦が顔を見合わせる。気付けば左衛門を抱く若い侍女の周りに仕事を中断した女たちが増えている。騒ぎの中心の左衛門はしきりになにかしゃべって手足をばたつかせる。そのたびに侍女たちが笑う。
「いやはや、何かと思えば。すでに色男といったところですかな」
声が掛けられて小十郎が傍らを見れば、いつの間にいたのか二、三の見知った顔がすぐそばに並んでいて、左衛門の起こす騒ぎをにこにこと眺めているではないか。
「いやはやなんとも、羨ましい。わたしもあんな時期があったのかなぁ。一体いつ終ったのやら」
一人の同僚が言うと、男たちがどっと笑った。
それに笑いをつられた小十郎は、ふと気付いた。
――猜疑、不快感、嫌悪。そして好奇。それらを含んだ視線が減っていることに。
今では突き刺さる視線はごく少数で、柔らかなまなざしがそこここから投げかけられていることに気付く。いつそうなったのか小十郎にはわからなかった。
傍らの蔦がそっと身を寄せてきた。疲れたのか、と体に腕をまわしてやればそっと肩のあたりに頭を預けてきた。ほう、と息をついた妻を思わず見下ろせば、横合いの同僚が小突いてきた。ムッとしてそれを見返せばからかうような視線とぶつかって小十郎は眉を寄せた。
侍女たちがそれに気付いてこちらを見たのではっとして蔦を離すと、蔦は言った。
「左衛門、そろそろ父と一緒に参りましょうか」
言うと、侍女たちは当然のように小十郎に左衛門を抱かせた。
父に縦抱きにされる形になった左衛門は、疲れたのかそれとも違うのか、ふーっと一丁前に息を吐いて、また皆を笑わせた。

 目次 Home 
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -