氷解
 其の四

「義姉上、お久しぶりにございます。左衛門にございます」
成実から左衛門を受け取った蔦が差し出すと、喜多の表情がふんわりと柔らかくなった。
「まあややなど……いつぶりのことでしょう」
無意識に腕を差し出した義姉に蔦は息子を託す。喜多はこの場の誰よりも慣れた手つきで左衛門を抱いた。左衛門はまた「うー」と言った。まるで挨拶のような言葉だった。
「伯母上ですよ、左衛門」
母の声に息子が反応する。母を見つけると、今度はくりくりとした目が喜多をとらえた。そしてふいに赤子は「あー」と言って笑った。今日初めて見せた笑い顔に一同が「おお」と声を上げた。喜多の笑顔がますます広がる。
「本当に可愛らしい」
それからふと、喜多は義妹に赤子を返して真面目な顔になった。
「本当に可愛らしい。……蔦、今ならその子を連れて矢内に戻っても構わないのですよ」
「え……」
不意に出た話題に、凍りついたのは小十郎と蔦の片倉夫婦だけではない。年若い夫婦と成実も身を固くする。誰もが避けていた話題だった。
「あなたは良く出来た嫁です。左衛門も大変可愛らしい。今回、あなたが矢内に戻ったとしてもあなたに非がないのは明らか。家政を上手く回すことができ、男児を産むことができるのならばもっといい男がおりますよ」
「――」
姉の歯に衣着せぬ物言いに、小十郎は拳を作って耐えた。蔦はだまって喜多を見つめている。
「なんなら、政宗様に見つけていただきましょうか、良い御縁を」
「おい、喜多――」
抗議の声を上げようとした政宗に喜多はすっと視線を向けた。その視線の鋭さと冷たさに政宗は思わず黙ってしまい、愛姫は困り果てたようにしており、成実はおろおろとあたりを見回している。
「――私は片倉小十郎の嫁にございます」
蔦はそんな喜多に静かに言った。腕の中の左衛門があう、と声を上げる。
「あのことは、確かに小十郎さまに私に願われたこと。ですが――」
「腹は借り物、と?」
怒りに満ちて冷静さを失い、珍しく話を遮った喜多に蔦は首を振る。
「小十郎さまは願われただけ。左衛門を連れて行こうと決めたのは私にございます」
「蔦」
「小十郎さまが夫として不出来であるとおっしゃるならば、私も左衛門にとって母としては不出来どころかないほうがいい存在でしょう」
うーうー、と左衛門が声を上げたので、蔦はそちらに視線を落とした。母が子に柔らかく笑いかける。
「ですが私は小十郎さまに助けられ、左衛門もこうしてここにおります。――さすれば、私は片倉の二代に恩があります。生かしていただいた恩と、生きていてくれた恩」
「――」
喜多はじっと蔦と左衛門を見つめている。赤子は無垢で、母には迷いがない。蔦は喜多を正面からしっかりと見据えた。
「その恩のために、私は片倉小十郎の妻でありたいと思います」
喜多はそこで目を伏せた。部屋はしんと静まり返っている。
「恩、などと。蔦、お前は不思議な女ですね。――お前が愚弟を憎まないなら、私がお前の分まで憎むという手もありますね。それがせめてもの姉としての償いになるのなら」
その言葉を聞いて、小十郎はぐっと目をつぶり蔦は首を振った。政宗は珍しく言葉を探し、愛姫は事態をなんとかする糸口を探そうとする。成実が、助けを求めるように綱元を見た。その視線に気づいて、綱元が立ち上がる。
「どれ、私はまだ抱かせていただいておりませんな」
どこか間の抜けた綱元の物言いに、一同が一斉にそちらを見た。綱元は気にした風がない。
「あ、はい――」
戸惑いながら蔦が左衛門をそっと差し出すと、綱元はにこにこと赤子を受け取った。
「左衛門殿、私はなかなかそなたと縁深く、だが説明が難しい関係にありましてなぁ。面倒なので伯父だと思ってくだされ」
あう? というような声を左衛門が出した。それを眺めながら、綱元がポツリと言った。
「姉上は私を憎んでおいでか」
「え――?」
綱元の言葉に喜多が珍しく面喰ったような顔をした。
「私が生まれたから、姉上と姉上の母上は鬼庭から出されたと聞いております。片倉の御夫婦の前でこう言うのは心苦しいものがありますが、鬼庭に比べれば片倉は禄も下。姉上は御苦労なされたのでは、と思います」
綱元は体を揺らした。腕の中の左衛門がきゃっきゃっと声を上げる。
「それも私が生まれなければなかったこと。恨んでおいでか」
「――いいえ、まさか」
喜多は目を見開いて、歳の近い異母弟を見ながら言う。
「たしかに片倉はあまり裕福とはいえませんでしたが――小十郎が生まれて、そんなことを考えている暇はありませんでしたし、何しろお前は随分立派になって。憎いどころか誇らしいものです」
「――ならばよかった」
綱元は姉に笑いかけ、左衛門を母の腕へと返した。
「憎んでいる、と言われたらどうしようかと。なにしろ私にとっては天命をいただいたばかりのころの話。おぼえておりませぬ。それでも憎いといわれれば、私には謝罪するよりほかにどうすることもできない話にございます」
喜多がはっとしたような顔になった。小十郎と蔦、そして皆が綱元の顔を見る。綱元はあいかわらずどこか読めない顔をしているが、凪いだ心地だけは読みとれる気がした。
「姉上が先ほど蔦殿におっしゃったことも似たようなことかと。母の腹の中でぬくぬくしていたころの自分の話で、父が伯母に憎まれ、母が板ばさみになるようなことになっていると聞かされれば、左衛門殿はどう思うでしょうな」
「――……」
「益もないことです。左衛門殿が屈折しても良いのなら、ですが。蔦殿は小十郎殿の嫁でありたいとおっしゃられる。左衛門殿にはそれで十分。姉上が責任を感じる必要も、またそれを負って余計な口出しをする必要もないかと」
「――綱元、お前、口ばかり立つようになって」
喜多がため息をつきながら言った。それは己へのため息であった。綱元はからからと笑う。
「ましてや小十郎殿も立派な大人。今更姉上が責任をとると言われても困りましょう。――子を育てるのには慈しみが肝要。憎しみは不要と心得ております」
綱元はそこでちらりと政宗を見た。その視線に政宗がふと右目を覆う眼帯に触れる。
「……そうだな。その通りだ。喜多、それはお前が一番良く知ってるだろう?」
「――政宗様」
「それに、小十郎殿は深く深く反省しておられますよ」
愛姫が小十郎を示して言うと、喜多は小十郎を今日はじめてまともに見た。小十郎は床を見つめていたが、意を決したように顔をあげる。その傍らに、左衛門を抱いた蔦が並んだ。
喜多は自らの額を抑えた。
「そう、そうですね――あまりにも頭に血が上って、冷静さを欠いておりました」
そこで喜多はすっと床に指をついた。弟夫婦がはっとする。
「蔦、ごめんなさいね、きついことを言ってしまって。
小十郎も――蔦は三国一の嫁ですよ。大事になさい。それだけは言っておきますよ」
「もとより承知。こたびのことは姉上がお怒りになられても仕方のないこと――」
小十郎もまた深く深く頭を下げた。蔦の腕のなかで、左衛門があうあうと声をあげて手足をばたつかせた。何やら大人にはわからない楽しそうなその様子に、一同は一致してようやっと笑顔になった。

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