氷解
 其の弐


屋敷にいても本当に書を読むしかやることはない。畑仕事もできないし、農具を掃除しようかと思ったがそれは秋の終わりにしっかりやっていたので不要だった。朝に腕がなまらないように素振りをした後、蔦の休んでいる部屋へ書見台を持ち込む。別に自室に籠っていてもいいのだろうが、それではなぜか逆に集中がそがれてしまい、妻の枕元で書をめくるといくらかそれが落ち着いたので謹慎二日目からはそうしている。時折書物から目をあげて妻を見る。気付けばその時間の方が長いこともあった。
昏々と眠る蔦を案じて時折やってくる使用人たちは小十郎の脇で少しよそよそしくする。仕方のないことだ、と小十郎は思う。日のほとんどを城で過ごし、戦になれば留守にする主人よりも、家政を取りまとめるその妻のほうが彼女たちにとって身近である。しかもその“奥さま”は“旦那さま”のために腹の子もろとも命を落としかけたのだ。怨まれても仕方あるまい。それだけのことはした。
「……小十郎さま」
声を掛けられて、物思いを中断する。見れば蔦が目を覚ましていた。
「どうした、何か欲しいか」
蔦が手を伸ばしてきたので、反射的にその手をとる。
「……いえ、何か欲しいというわけではないのですが」
言われて、節くれだった指を撫でてくる妻の手に“ぬくもり”が欲しかったのだと悟る。川の冷たい記憶がまざまざと蘇ってきて、小十郎はその手をきつく握った。
「そばにいる。大丈夫だ」
言うと蔦は微笑んで夫の手を握ったまま、また眠りについた。
――謹慎の間、小十郎は蔦の眠る場所に詰めていたので蔦は何かと小十郎に物を頼むようになった。と言っても、小十郎は頼まれごとをさらに女中に頼むだけで、実際にあまり動くことはなかったが。白湯を持ってくるように、とか、着替えを、といった簡単なことばかりである。すると自然、使用人たちはよそよそしくしている主人である小十郎と接触せざるを得なくなる。
――奥さまから直接であれば、手間が省けますのに。
そんな空気を感じて小十郎が側を離れようとすると蔦は不安がった。そして小十郎は再び蔦の枕元で再び書物をめくる。そんな日々がいくらか続くと、使用人たちの主人に対するよそよそしさがゆっくりと引いていった。“奥さま”の慕う“旦那様”に対して壁を作っていたりしていても仕方ないと思ってくれたのか、それとも屋敷の主が小十郎だということを思い出したのか、前のようにとはまだいかないものの、女中たちはそれまで放置気味だった小十郎にもなにかと気をまわしてくれるようになった。
そして何より、蔦が小十郎の手を握って眠っているのを見て皆以前のようにほほえましそうに笑ってくれるようになった。その様子に、小十郎は知らぬ間にほうと息をついていた。


やがて子が生まれ、左衛門と名付けられ、初宮参りも済ませる頃になると蔦は少しずつ働き者の本性を取り戻していった。
小十郎が城仕えに戻るころには成実の怒りもすっかりとれて、
「ねぇ、左衛門見せてよ。愛姫も会いたがってるって梵が言ってたよ。今度三人で一緒に城においでよ」
と言うまでになった。
しかしながら他の同僚たちがそうではないことに小十郎は気づいていた。仕事上はともかく、一休みの時間となると皆小十郎に子どもの話題を振ったものかどうか考えあぐねている様子が見て取れた。会話が上滑りするのだ。唯一変わらないのは綱元で、興味がないのかなんなのか茶をすするだけである。そんな綱元の態度にほっとしつつも別な居心地の悪さも感じる己に、小十郎は自分自身でため息をついた。
しかしながらそれより参ってしまったのは姉の喜多である。
一言せめて生まれたことだけでも、と喜多に会おうとするが喜多は頑なだった。たまたますれ違った折、
「姉上」
と声をかけたが喜多はそのまま行ってしまった。小十郎は重いため息をついた。


喜多ではない奥方付きの侍女が小十郎のもとを訪ねてきたのはその数日後だ。
「奥方さまが、蔦様のお加減はいかがか、と。そしてもし左衛門殿も良いようならば」
――近いうちに顔を見せてくださいませね。
そういうことだった。
屋敷に戻って妻に告げれば、蔦はにっこりした。痩せて疲れてはいるが活力を感じさせる顔に小十郎はほっとする。
「姫様にお会いするのは久しぶりです」
最近首が落ち着いてきて少しの間縦抱きできるようになった左衛門をあやしながら蔦は言う。左衛門はアーアーと赤子独特の声を出して母に甘える仕草を見せた。最近は母に笑うようにもなって、小十郎は子の成長に驚くばかりだ。だが父が子を抱いたことがあるのは数度のことで、小十郎は罪悪感からか妻と子を少し離れた所から見守るばかり。
初宮参りの帰り、久々に会った舅の矢内重定はどこか慣れた様子で孫を抱きうれしそうにしていた。始めは小十郎に対して複雑な面持ちをしていた舅と姑も、孫を見ると相好を崩してくれた。加えて、夫にある意味殺されかけた娘がそれを気にしている様子を見せなかったのでその父と母も――あの後、姑などまさしく般若の様相で娘を迎えに来たのだが――根本的なところはともかく、許すしかなかったのかもしれない。ともかく孫を抱いてそれをあやそうとくるくると表情を変えてみせる重定を小十郎は少し羨ましいと思ったことを覚えている。

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