and I love...
 其の五


小十郎は制止する厩番を振り切り、鞍も鐙も付けず轡と手綱だけの馬に飛び乗り、自らの屋敷を目指した。門が見える所まで来ると、家中の者が総出で蔦の名を呼んでいる。
ここにはもういない、と判断して小十郎は轡を回した。
――どこだ。
辺りには雪が舞い始めている。小十郎は必死に頭を巡らせた。
「はっ!」
そして考え至るより早く馬の腹を蹴る。
あそこしかない。


――屋敷通りを抜け、小川の橋を渡り、辻の地蔵の横を駆ける。思いつくのは、畑だ。
よく蔦も手伝ってくれた。豊作の年も不作の年も、蔦はいつも笑ってくれる。小十郎さまにお応えできるように、腕を振るいますね、と。出来が悪いものであるとより奮起して腕が鳴ります、と言ったものだ。
だが今はそこは雪に埋もれている。小十郎は手綱を引き、馬を止め雪舞う中目を凝らした。
人の姿はない。
「蔦!」
叫んでも馬がぴくりと耳を動かすばかり。
「どこへ……」
焦って見渡せば、降る雪の影を人と取り違えそうになる。手綱を握る手や額にひらひらと雪が落ちるが、すぐさま溶けるだけで留まることはない。むしろ額には汗があふれ出てくる。
そんな小十郎の目に、畑の脇の水路が目に入った。しばらく先の田に水を引くためのものだ。さきほど越えた小川から水をひいている。
小十郎ははっとした。
「小川の先に川が……!」
小川はいずれ大きな流れと合流する。気付いて小十郎は馬の腹を蹴った。


馬を川に沿わせながら小十郎は目を凝らす。雪が吹雪いてきた。一刻の猶予も許されない。冷えれば子は流れ、蔦が危ない。もうここ以外を探している余裕はない。ここであってくれ、と小十郎はただ願う。
しばらくして、小十郎は川面に一つ黒いものを見つけ出した。
「蔦!」
応えはない。だが近づけば、長い黒髪が妻だとわかる。
蔦は殆ど肩まで川に身を漬けていた。小十郎は馬から飛び降りて迷うことなくざばりと水に入った。
「馬鹿が! 何をしてる!」
ぐいとこちらを向かせれば、蔦は胸の前で手を合わせなにやら一心に唱えている。目はうつろで、肌の色は失われ、唇は青い。体は小刻みに震え、塗れぼそった黒髪が頬にへばり付いている。
「蔦!」
小十郎が呼ぶと、蔦はこちらに目を向けたが、それも一瞬のことで、ぐらりと細い体が傾いだ。ふつ、と何やら唱えていた蔦の声が途切れれ、ざぶ、と細い半身が流されそうになる。小十郎は慌てて蔦を抱き上げ、岸に戻るため身を返した。水の冷たさは感じない。戦場でも感じたことのないものが深い部分から湧き上がって小十郎を焦らせた。抱えた蔦はぐったりとして動かない。これまで感じたことのない妻の重みに焦りが増す。途中幾度か流れや川底の石に足がもつれた。それでもなんとか岸に着けば、異変を察したのか馬が近寄ってきた。
「居たぞ!」
遠くで声がして、小十郎は我に返る。全身を濡らす蔦を拭き温めなければならない。横抱きにした蔦を川原におろしかけ、ふと膝裏に回した腕に暖かいものを感じて小十郎はそこを見た。
水ではなく、人の体を巡る赤い川。それが蔦から流れ出ている。そしてそれは、べっとりと小十郎の腕にまとわりつき、ぽたりと雪の上に鮮やかな赤い点を落とした。
――子が流れる。
血の川と一緒に。
――蔦が死ぬ。
小十郎は、生きてきて終ぞ感じたことのない恐怖が沸き起こってくるのを感じた。

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