我成地駆雉虎猫……?
 其の弐

それから蔦は渇いた手ぬぐいでも再び体を拭いてくれた。毛からいくらか水気がとれてすっきりする。それから彼女は猫の頭を撫でて、ふと気づいて言った。
「あら、お前、私の旦那さまと同じところに傷があるのね」
ちょいちょいとそこを撫でる蔦に小十郎は
「にゃあ!」
と鳴いた。気づいてくれとばかりに。
「その旦那さま、お召し物を残して消えてしまったのだけれど」
伝わるはずもなかった。
猫はがっくりと肩を落とす。今、外では下男やら家の者たちは必死に小十郎を捜索している。どうしたものか、と思っていると蔦は猫に待っていてくれるようにと言って自分も出ていってしまった。外は雨である。
蔦の体が冷えてしまう、と思ったがどうしようもない。また濡れて蔦の手をわずらわせるわけにはいかない。まんじりと小十郎は皆が戻って来るのを待った。戻って来ると、蔦にすぐに駆け寄った。すりすりと頭を擦りつけてなんとか事の次第を伝えようとする。だが伝わるはずもなく蔦は戸惑う家の者たちに指示を出す。
「急なお呼び出しでお城に向かわれたのかもしれません。翌朝まで待ってみましょう。それで逆に明日お城から何か聞かれたら、この雨でお風邪を召したと申し上げるしかありません。むやみに騒ぎを広める前にもう一度お探ししましょう。でも……今日はもう待つしかありません」
小十郎は見事に収めてくれた、と思ったが蔦はため息をつく。やがて夕餉の時間になった。嫌がる女中を制して蔦は飯をくれた。


日がすっかり落ちて眠る時間になっても、家の者たちにとっては――小十郎は戻らなかった。蔦の傍にいないと邪険にされるので、自然小十郎は蔦の傍にいるようになった。いつも通り二組布団を敷いて、蔦は待つ。雨のせいで夜はだいぶ冷える。だが蔦は布団に入らずその脇で正座をしてすでにいる小十郎を待っていた。
「にゃー」
蔦の膝に前足で触れながら鳴くと、蔦は笑った。
「お前は寝ててもいいのよ。そうだ、抱っこしましょうか」
ひょいと小十郎は持ち上げられて温かな蔦の膝の上に乗せられた。
「にゃー」
寝てもいいんだぞ、と伝えたいがにゃーとしか言葉が出ない。蔦が体を撫でてくる。
「お前の毛は柔らかいのね」
蔦の手は優しい、と小十郎は思う。しばらくして蔦がぽつぽつとしゃべり始めた。
「旦那さまは小十郎さまというの。ちょっと強面で言葉も時々怖くてなんだかぶっきらぼうな人だけど」
「……にゃあ」
複雑になって思わず声をあげれば蔦は笑った。
「時々とても優しいの。政宗様という方が主君でね、小十郎さまは主君第一の素晴らしいお武家さまよ。でもお仕事が終わるといつもきちんと帰ってきてくださって、夕餉はこちらで召しあがるの。……こんなことははじめてだわ」
「……」
猫が思わず見上げると、ふと蔦は真面目な顔で言った。
「今日は畑に出られたのだから、遊里に行かれるはずもないし」
「にゃ!」
事もなく言ってのけた蔦に小十郎は慌てた。
――何言ってやがる、お前、俺は付き合いで行っただけで祝言以来買っちゃいねぇ。
だがにゃーにゃーにゃー、としか言葉にならない。その様子が面白かったのか、蔦は笑った。
「なあに、お腹がすいたの?」
「にゃー!(違う!)」
蔦は我慢してね、と言うばかり。
そしてまた体を撫でてくる。――ああ、なんだかむずむずする。小十郎が思っていると蔦が言葉をつづけた。
「主君第一だから、顧みてやることはできないとよくおっしゃるけど。それでも気遣ってくださってるわ。畑にご一緒すれば無理なことはするなとおっしゃるし、重いものは持ってくださるし」
「……にゃあ」
「ふふ。それと時々、甘味や綺麗な小物をくださるの。この間は綺麗な細工の簪をいただきました。とても優しい方よ」
「……」
そうだろうか、と小十郎は思う。苦労をかけているとしか思えない。簪だって、たまたま政宗の所に来た商人から、面白がる主に勧められて買ったまでである。渡し方だって凝っていたとは思われない。
だが、蔦の顔は穏やかで嘘をついていたり強がっている様子はない。
「私は、なにか小十郎さまのお役に立っているのかしら」
穏やかに言い、優しく頭を撫でてくる手に小十郎ははっとする。
――立ってるとも。なんの心配もなく登城できるのはお前のおかげだ。
夫婦になって以来言ったことのない言葉は「にゃー」としかならない。蔦は微笑むばかりだ。小十郎は冷えてきた夜を気にする。
「にゃー」
せめて布団に入るよう促そうと膝を降りれば、蔦はふと立ち上がり、どこぞヘ行ってしまった。厠か、と思えば少しして蔦が戻ってきた。その手にはちりんちりんと鳴る鈴があった。紺の紐に通してある。
「ほら、トラ」
――勝手に名前を付けられたようだ。
小十郎は尾を振ってちょっと憮然とする。
蔦はそれには構わずにそんな“トラ”の首に鈴のついた紐をまわす。
「小十郎さまがお戻りになられたら、お前を飼っていいか聞いてみましょう。お前はいい子だもの」
顎を撫でてくれる手が心地よい。ゴロゴロと鳴いた後、小十郎は蔦の布団の枕の横に丸くなった。蔦が再び布団の傍らに座りなおそうとするので、にゃーと言う。
「なあに?」
と言うので枕に前足を伸ばして示すと蔦は苦笑した。
「そうね、起きていた、なんて言ったら叱られるかしら」
そう言って布団に入る蔦にホッとする。傍らに来た蔦の顔に、小十郎は本能的に頭を擦りつけた。蔦が擽ったそうに笑う。
「なつっこいのね、トラ」
トラじゃねえ、という声は出ない。
横になった蔦の手が触れてくる。
「どこにいらっしゃるのかしら……」
不安げな声に小十郎は安心させようと必死に頭を擦りつける。
――ここにいる。ずっといる。不安がるな。
やがて、双方ともそれぞれの不安を抱えたまま、眠りに落ちた。


温かな陽光が肌に感じられて、小十郎は目を覚ました。不安のためか眉間に皺を寄せて眠る傍らの蔦に苦笑して手を伸ばし、頬を撫でる。そしてふと気付いた。人の手である。蔦の頬に触れたまま見回せば、猫から人へと戻っているようだった。「ん」と蔦が身じろぎして、目を開けた。横になったまま目が合う。蔦がはっとした。
「小十郎さま!」
がばりと起き上がる蔦につられて起き上がれば、珍しいことに蔦が抱きついてきた。
「よかった」
ほっと息をつく蔦の吐息が直接肌に触れる。布一枚しか隔てていない蔦の体は柔らかで暖かい。小十郎は戸惑った。やがて抱きつく方も気づいたらしい。ひとしきり夫の姿を見回して、寝起きらしく撫でつけられていない彼の髪をひと撫でする。
「いつお戻りに?お召し物は?」
「……わからん」
言えば、蔦は冷えないようにと小十郎に布団をかけてきた。そして一晩見なかった夫――あくまで蔦にとってである――が戻ってきたのがよほどうれしかったのか、そこへ自分も一緒にくるまって少し冷えている小十郎の胸板に手をついて頬を寄せてきた。おかげで、冷えていた小十郎の体が一気に温まった。
「でも、ようございました!」
朝日に負けぬ輝きを見せて言う妻に、小十郎もつられて笑う。しばらくして、あ、と蔦が言った。
「どうした?」
小十郎が訝しむと、蔦はきょろきょろとあたりを見回した。小十郎の背の向こうを覗き込んで首をかしげる。
「トラ……猫がおりません。大変良い子なので、家に置いていただこうと思ったのですが」
小十郎は傍らに落ちている、紺の紐がついた鈴を取り上げた。ちりん、と鈴が音を立てる。
「それは、トラの」
そう言う蔦を遮って、小十郎はしばらく逡巡した後こう言った。
「……、にゃあ」

(了)

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2010年9月16日初出 2010年9月23日改訂
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