竜の右目の妻 一

「上の畑に行ってくる」
と、例によって言葉少なにぶっきらぼうに告げた夫に蔦が「はい」とだけ答えたのが数刻前。何故か陣羽織を着たまま表からではなく裏の勝手口から出ていった夫に疑問を抱かないでもなかったが、
「左衛門と先に寝てろ」
と言われれば黙るしかない。もともと、口答えしたりする性質でもないのだが。

昼間歌ったり、家の者たち相手におしゃべりしたり、久々に屋敷に戻った父・小十郎におびえたりした息子・左衛門はというと、今はぐっすりと眠っている。いつもなら屋敷に戻れば眉間の皺をいくらか薄くする小十郎に左衛門は「ちちうえ」を思い出すのだが、今日はその皺が薄まることはなく息子は怯えたままだった。
蔦はそんな息子の寝顔を眺めながら、ふうと息をついた。先に休んでいなければ小言も言われるだろうが、小十郎が屋敷にいるときは蔦も先に眠ることはない。簡単な家事をこなしながら、小十郎が寝支度に入るのを待つのが常であった。だから苦ではない。それに今宵は先ほどの夫の様子が気になる。

女の嫌な予感は当たるというものだ。しばらくすると、気をつけてはいるが足早なせいで音を立てざるをえない気配が近づいてくる。蔦は左衛門が眠っていることを確認してから、そっと部屋を出た。すると、古参の住み込み女中が慌ててこちらにやって来るところだった。
「どうしました」
と小声で問う。
「奥様、旦那さまの畑を手伝っている老爺が訪ねてまいりまして、あの……」
蔦はひとつ頷き「そちらへ行きます」と短く言った。表の庭に待たせている、というので足早にそちらに向かう。
すると、女中が言ったように庭で老爺が立ち尽くしていた。
「どうかしましたか」
蔦が問えば老爺が庭に膝をついた。
「奥様、申し訳ありません」
泣きながら土下座をする老爺に驚いて、蔦は思わずそのまま縁側を降り老爺の隣に膝をついた。
「何かあったのですか?ともかく、さあ、頭をあげてくださいな。さ、そこに座りましょう」
「いいえ、それはできません」
嗚咽混じりに言う老爺に蔦が少し首をかしげた時だった。
「蔦さまー!!」
大声があたりに響いて、二つほどの新たな影が庭に駆け込んできた。見れば、見慣れた小十郎の部下たちであった。
「まあ。お静かに。皆休んでいますから」
と、いうと二人ははっとしたようだったが蔦の傍らにいる老爺に気付いてまた声をあげた。
「じーさん来ちまったのか!」
慌てた部下の様子と嗚咽する老爺の様子に気づかない蔦ではない。
「……小十郎さまに何かあったのですね」
問えば、一瞬ためらいを見せたものの部下たちはうなずいた。
「それで、今はどちらに?不要とおっしゃられていないのならば、私も――」
蔦がさらに問えば、部下たちは顔を曇らせた。
「そ、それが」

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