姫と妻
 其の五

「わあ」
炭を入れた火熨斗の底でくしゃくしゃの手ぬぐいをさっと延べて、きれいに四つに畳んでみせれば愛姫は歓声をあげた。大したことはしておりませぬよ、と蔦が言えば愛姫は首を振る。
「蔦は毎日この何倍もの大きさの着物に火熨斗をかけているのでしょう?大変なことだわ」
小十郎殿がなんだか嬉しそうな顔をしたはずです、と愛姫が続けたので蔦はびっくりする。
「小十郎さまが?」
「ええ。小十郎殿はとっても誇らしそうだったわ。自分にはもったいない妻です、とおっしゃって」
その言葉に、まったくもって、と喜多が続けたので愛姫は笑った。
愛姫の言葉が胸に染みて、蔦はほうっと息を付いた。
「小十郎殿は蔦に直接言ったことがないのですか?」
蔦の様子に気づいてどう目した愛姫に蔦は胸元を押さえた。
「ええ、あまり――でも姫様のおかげで嬉しいことを知ることができました。ありがとうございます」
頭を下げる蔦に愛姫はそれならよかったわ、と嬉しげに言った。
その二人の間に、冷えた声が落ちる。
「火熨斗が冷めてしまいます。炭を変えて参りましょう」
そう言う田村の侍女に蔦は、まだ冷めはしません、と言いかけて口を紡ぐ。田村の侍女は火熨斗の柄を掴むとさっさと行ってしまった。そんな侍女を眺めて、不意に愛姫が蔦に向き直った。
「ごめんなさい、とよは伊達に来てからずっとあんな感じなの。もともとは優しい人なんですけれど、慣れないのかピリピリして」
気遣わしげな愛姫の言葉に、蔦は大丈夫と首を振った。そんな蔦の耳に「姫様に心配をおかけするとは至らない者ですね」との喜多の声が聞こえて、一瞬自分が怒られたのかと思ったが、喜多が明確に誰と言わなかったのが田村の侍女のことだと気づいて蔦は肝を冷やした。愛姫は困った顔をした。

やがて田村の侍女頭だというとよが戻ってきた。
それを受け取ろうとする愛姫を制して蔦が手を伸ばす。慣れない愛姫が火傷をしないようにと、高いところから差し出された火熨斗に気を使ったのだ。
――その時、ひょいと火熨斗が思わぬ動きをした。
「――っ、つ」
じり、と蔦の右手の甲に痛みと熱が走った。
「蔦!」
思わず手を引っ込めた蔦に愛姫と喜多が声を上げる。見れば熱せられた火熨斗が当たったらしい右手の甲はすでに赤くなっている。
「まあ、なんと申し訳ありません。でも片倉の奥様も不注意でしたね」
演技じみた声を出し、続けて嫌味たらしく言ったとよという“侍女頭”に愛姫は驚き、喜多は目をつり上げた。
「――申し訳ありません」
「いいえ、それより早く冷やさないと!」
右手を押さえる蔦にそう言った愛姫の言葉に、真っ先に動いたのは喜多だった。
「蔦、井戸に参りますよ。ついていらっしゃい」

井戸でざばざばと右手に冷水をかけられる。
「申し訳ありません、不注意で」
「不注意なものですか。火熨斗を上から差し出すなんて。まして柄はあなたの方をすっかり向いてはいませんでしたよ。あの女、いつかやるとは思っていましたが、まさか蔦にやるとは」
――面と向かって私に炭を投げつければよかったものを、という喜多に蔦は苦笑する。
喜多は強い。弟の小十郎だけでなく政宗や時宗丸、いや先頃元服して成実となった彼ですらおそれるのだ。昨日今日やってきたただの女が敵うはずがない。
「義姉上、あのお方とは」
「あのお方、というよりも田村から来たものたちですね。ここは伊達だというのに、田村は、田村は、とばかり。姫様までしかりつけて。まったく至らないにもほどがあります」
怒りにまかせて水を浴びせてくる喜多に蔦は、もうだいぶ冷えました、と言う。それから右手を開いたり閉じたりしてみる。引きつれる感じがして顔をしかめると、喜多が心配そうにのぞき込んできた。
「馬の油を用意させましょう。蔦、姫様の部屋はわかりますね。私は油をとってきますから、先に戻っていなさい」
「はい」
蔦は左手で右手首を押さえて立ち上がり、歩きだした。
廊下を行く途中、曲がり角にくるとなにやら声が聞こえてきた。
「喜多どのは片倉どのの姉だとか。姫様と片倉どのの嫁どのがお近づきになることは、すなわち、喜多どのの権勢が奥にて強くなることになります」
蔦は思わず歩みをとめて一歩後ずさった。
「それでは田村の沽券に関わります。みなさま、おわかりですね。伊達を強めてはいけません」
――この度の痛い目でわかればいいのですけれど、という言葉まで聞こえてきて蔦は目を丸くする。
はて、愛姫は伊達に嫁いできたのではなかったか。田村の沽券とは何だろう。
蔦は考えた。たしかに子を産むまで嫁は未だ家族ではない、とする者もいるが、今曲がり角の向こうで話しているのは伊達の者ではない。彼女たちは何を言っているのか。すでに愛姫は伊達政宗の妻であるから、伊達のものである。田村の沽券などと――婚儀は家と家とのことはいえそこに侍女ごときが立ち入るべきものではない。蔦が聞こえてくる声に立ち尽くしていると、その背中に大きな声がぶつかった。
「蔦、先に待っていなさいと言ったでしょう」
驚いて振り返れば、喜多が曲がり角を睨みつけている。
曲がり角の向こうで、ばたばたとはしたない足音がした。

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