寒い。底から上がってくるのだ、冷気が。
敷いた布団越しに冷気を感じて、小十郎は目を覚ました。起き出すにはまだ早いらしく、辺りは暗い。
ふと隣を見れば――身分も随分上になったのだから、寝室は分けるべきだとは思うのだが未だに同じ部屋で寝起きしている――妻の蔦は鼻の上まで布団を引き上げている。
しばらくぼんやりしたあと、用を足すかと小十郎は起き上がって部屋を出た。
庭に面した廊下に出ると足の裏が凍りつくかのようだ。
月は冴え冴えとしていて、青い光が庭の雪の上におちて雪の白さを恐ろしいほど深いものにしている。
冷たい廊下を行って、そして戻る途中、ふと嫡男の様子が気になって小十郎は寄り道をした。
大人の目には充分に明るい光の中で最近一人で眠るようになった子どもの部屋を覗くと、左衛門も布団にもぐりこんでいるようだった。
しかし布団には大きな山がひとつと小さな山が二つ見て取れる。小十郎はそうっと部屋に入り込み、慎重に拡げてある大人用の掻巻布団を持ちあげて山の正体を確かめて思わず苦笑した。
大きな山は布団の主である左衛門で、小さな山は布団に間借りする二匹の若い猫であった。一人と二匹はピッタリと体をくっつけて眠っている。
小十郎は息子と猫が冷えないように布団をかけ直してまたそぅっと部屋を出た。
あの二匹の若い猫は、屋敷で一番最初に飼われた猫であるトラの子である。春先、どこぞへ行った茶虎の猫は腹が膨らんだ雌猫を連れて戻ってきた。
口元と足先だけが白く、他は灰色と黒の中間の色をしたようなその猫を見て蔦は
「まあお前の名前はタビね」
とずいぶん安直な名付けをしたものだ。タビ――要するに足袋である。口元のことは置いておいて、白足袋をはいたようなその姿にそのままの名前をあたえた蔦は満足そうだったが、トラといいタビといい見た目そのままの名前に小十郎は笑うしかなかった。
ともかく、左衛門と共に眠る若い猫二匹はタビが産んだ――恐らく――トラの子のうち、屋敷に居付いたものである。
寝室に戻れば、あけたままにしていた布団はすっかり冷えていて小十郎はため息をついた。それからそうだと思いついて、妻の布団をひょいと持ち上げた。蔦は自分より体温が低いが、あたたかい。潜り込んでも構わないだろうと思ったからであるが――小十郎は布団をあげたところでまたため息をつき、それを丁寧に戻した。
蔦の胸元でタビがすやすやと眠っていたのである。
自分が入る場所がない、と判断した小十郎は大人しく冷えた自分の布団に潜り込んだ。じんわりと冷たさが体に染みてくるようでもあり、布団に熱を奪われるようでもある。思わず丸くなって蔦の方を向くと、妻は相変わらず安らかな寝息を立てているようだった。
蔦の息遣いがなければ、辺りは痛いほどに静まり返っているに違いない。
小十郎は僅かに上下する妻の布団を見つめて――ふと思い出した。

タビは人懐こい猫で、すぐに人になついた。特に蔦には何か感じることがあったのだろうか、その頃になるとすぐにどこぞへと行ってしまうトラに代わって蔦のそばにいることが多かった。初めてみた時、見た所タビは若い猫で、どうも初産になるようであった。雌の勘ですでに子がいる蔦を味方だと思ったのかもしれない。
ともかく、タビはそんな調子で蔦によくなついた――今でもだ。
そしてそれはタビのお産のときにもよくわかった。
猫というのは出産の時には人を遠ざけると聞いていた小十郎は、猫らしく暗い押入れに巣を作ったタビがおあーんおあーんと不安げに泣いて蔦を呼ぶ様子に仰天したものだ。蔦はなるべく押入れの戸を細く開けて腕を差し入れ、初産の猫の体をさすっていた。小十郎はどうしていいかわからず、その日は気もそぞろで表で部下たちと共に過ごした。昼過ぎ――部屋の様子を見に行けばタビの声は聞こえず、代わりにか細いみいみいと鳴く声が聞こえた。蔦は押入れに向き合ったままこちらに背を向けていた。
その背中がふと小さく感じられたが、小十郎は
「生まれたのか」
と普通に声をかけた。すると蔦は肩越しに振りかえってこっくりと頷いた。――頷いただけである。
「どうかしたのか」
と、小十郎が不安になって近づけば、赤いもので手を汚した蔦がなにやら小さなものを包んだ手拭いを大事そうに両の手のひらで包みこんでいた。
赤いものが血だと気付いた小十郎は押入れのみいみい鳴く声よりそちらに衝撃を受けてそこに視線を張り付けた。蔦は優しく、哀しげな顔をしてそっと手拭いを撫でた。
「四匹生まれたのですけど、この子だけだめでした」
蔦がそっと手拭いを開いた。そこにはまだ毛の濡れたちいさなちいさな子猫がいた。眠っているかのような顔は子猫らしい可愛らしさをもっている。
小十郎は恐る恐る妻の手ごと小さな子猫を自分の大きな手で包みこんだ。
「かしてみろ」
言うと、そっと蔦が手を引いた。子猫のくったりとした軽い重みが小十郎の両手にのしかかった。
「まだ……大丈夫かもしれねえ」
言って小十郎は手拭いごしに子猫の体をそっと擦った。優しい刺激を与えると、生まれたばかりの命というのは時に力を取り戻すのだ。
だが、小十郎の手の中で子猫の体はみるみるうちに冷たくなり硬直していった。
熱を持たない肉の感触というのに、小十郎はぞっとする思いだった。
戦場でいくつも死を見てきたし、死体にも触れたことがあると言うのに、だ。
「小十郎さま」
諦めきれぬように子猫の体を優しくさすり続ける夫の手を、蔦の手が包み込んだ。小十郎が擦るのをやめると、蔦が優しくその手から死んだ子猫を奪い取った。
蔦は優しく子猫を見つめて、言った。
「猫の場合はわかりませんけれど――

――ドウブツノ母親トイウノハ死ンダ子ヲ食ベテシマイマスカラ、

タビの目の届かない所へ――土に還してやりましょう」
蔦の発した何気ない言葉に、小十郎はぞくりとした。
それから小十郎はそこに茫然として、蔦が死んだ子猫の為に手拭いを取り替えに行ったのも気づかなかった。
動物の母親というのは――
小十郎も経験として知っていた。
子どもの頃、実家の神社の縁の下に犬が子どもを産んだことがあった。産の終わった頃に縁の下を覗くと、母犬は必死に一匹の子犬の体を嘗めていた。他の子犬たちはすでに母の乳にすがりついているというのに、その子犬だけが動かない。
小十郎もさすがに異変を察して、その子犬を助けてやろうと手を伸ばした。すると母犬は唸って小十郎に歯を剥いた。
あまりに小十郎が縁の下へと手を伸ばすので、気付いた姉の喜多は弟をたしなめた。そして、しばらく後。
何かをかみ砕く音が小十郎が座りこむ縁側へと昇って来た。
小十郎が不審に思って、縁の下を覗き込むと――今しがた、母犬があの動かない子犬を飲み込むところであった。
小十郎は飛び上がって、慌てて姉の元へ向かった。
「姉上――子犬を、母犬が」
あまりのことに動揺して言うと、喜多も少し驚いたようだったが――姉はしばらく考え込んだ後、こう言った。
「子犬は母の腹へと戻ったんですよ――また母から生まれてくるために」
幼い小十郎には喜多が嘘をついたとは――思えなかった。あるいは、思いたくなかったのかもしれない。ともかく、姉の言った事は小十郎にとって衝撃を和らげ納得するに足りるものであった。
だが幼いころの体験としては衝撃的だったソレは、今の今まで、蔦がそのような事実を口に乗せるまで、小十郎は忘れていた。あるいは、忘れていたかったのかもしれない。
あれから十数年――いや二十年近くが過ぎ戦場でいくつもの死を見た小十郎にも、喜多が言ったことが嘘とも思えなくなっていた。
人は死ぬ時、時に母を呼ぶ。生き物というのは、母の胎に帰りたがるものなのかもしれない。
だが、だが。
タビに死んだ子猫をかみ砕かせるのには、抵抗があった。
小十郎は自分の両の手を見下ろした。そこにはタビと子猫を結んでいた血がこびりついていた。それから小十郎はその両手を擦り合わせて、目を瞑った。
祈るように、かもしれないし、違うかもしれない。
ただ肉の感触がある冷たさに、小十郎はあの冬の川を思い出していた。己が願ったために、身重の蔦が身を浸した冷たい川を。
そして乾きつつある血に蔦から流れて雪の上に落ちた血を思う。母の胎の中で死にかけた左衛門のことも。
しばらくすると、みいみいというか細いが力強い声が耳に届いて小十郎はそっと押入れを覗き込んだ。
中を見れば、三匹の子猫が母猫の乳にすがりついている所であった。そのうちの一匹を優しく舐めて清めていたタビが小十郎の視線に気づいてこちらを見た。
それからシャーっと牙を剥いたタビに小十郎は思わず身を引いた。
タビはすっかり若い雌猫から母猫になっていた。
小十郎はその姿に安堵の息をついて、ふと蔦がいないことに気付き妻を探した。それから二人で庭の片隅に深く穴を掘り、生まれてすぐ死んだ命の為に石を積んだ。

生き延びた子のうち、一匹はその後貰われていって、残りは先ほど見たとおり屋敷に母猫と父猫のいる屋敷に居付いた。それもいずれ、出ていくかもしれないが。
なぜ、あれから数カ月もたったこの晩にそんなことを思い出したのかはわからない。
眠るタビを見たからかもしれないし、蔦の顔を見たせいかもしれない。
恐ろしいほど白い雪を見たせいか、それとも寒さのせいかはわからない。だが今日は、蔦が川に身を浸し、左衛門が流れかけ、小十郎が母体を抱えて流れに逆らったあの日ほどは寒くはない。
ただ、今思えばあの死んだ子猫は、小十郎がかつて蔦に何を願ったかを、望まないのに得られた穏やかな幸せの中にある男に今再びつきつけるために生まれたのかもしれないとも思えた。
身の内から外気ではない寒さが湧き上がり、小十郎は思わず歯を食いしばった。
あの子猫のように冷たくなった子を抱く事が自分にできたかと思う。左衛門を抱いたあたたかさをしっていれば尚の事――お前は世にも恐ろしいことを望んだのだ、と両手に乗るほどに小さい命だったものが訴えていた気がする。
そこへ、なおん、と猫のささやきが聞こえた。目をやれば、何時の間に現れたのかトラが小十郎を布団の縁から見下ろしている。
「なんだ?」
小十郎もささやきで答えると、トラはふたたび
「にゃーん」
と鳴いた。それからトラがもぞもぞと布団に頭を突っ込んできたので小十郎は布団をあげてトラを入れてやった。
「やれやれ……お前、嫁さんの所行かなくていいのか。お前なら入れるぞ」
「にゃん」
トラは布団の中で反転して小十郎に顔を向けた。
トラは不思議なことに子煩悩な猫で、屋敷に戻ってくると自分の子と遊んでやることがよくある。小十郎は左衛門といい自分の子といい辛抱強く相手をするトラに感心したものだ。しかし子煩悩なトラは、実は自分が子を一人亡くした父だと知っているのだろうか――と小十郎はふと思った。
そして複雑な思いでトラの頭を撫でれば、
「なーん」
とトラが鳴いた。
声は密やかだった。しかしその声は、だから俺は子を慈しむのだ、未だ一人も亡くしていないお前は幸いだ――と諭しているように小十郎の耳には届いたのだった。

(了)

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2011年2月24日-25日初出
2012年1月23日改訂
2015年1月2日再改訂
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