蛟眠る 第二十話
 其の四

「若! まっすぐです、まっすぐ!」
「水平に――川の面に対してまっすぐですよ!」
夕暮れ時、城から下り、屋敷に近づけばそんな声が聞こえてきた。
屋敷の横を流れる広瀬の河原からだ。小十郎は屋敷の門の前を通り過ぎると――控えていた下男がやれやれと少し微笑ましそうな顔をした――声のする方へ向かった。
橙に染まる土手には蔦がいた。いつかのように隠れているのではなく、堂々と。
横に並べば、川岸には標郷と秀直と左衛門がいる。
そして彼らは川面に向かって石を投げている。
一、二、三。一、二、三。ときどき一、二、三、四、五。
水面で跳ねた石はとぷんと沈む。その度に三人は声をあげて残念がった。
「……何か決意していらっしゃいましたね」
傍らから発せられた声に、小十郎はそちらを向く。
しかし蔦は慈しみの視線を息子と、その世話を任された二人にあてたままだった。
小十郎はしばらくそんな蔦の横顔を眺めた後、息子たちのほうへ視線を戻した。
「……ああ」
「右目の決意――私には計り知れないものでしょうね」
蔦は静かに言う。
「……また戦に出ることにはなる」
「はい」
「……苦労をかけるな」
ふふ、と笑う気配がして小十郎はまた妻の方を見た。蔦も今度は夫を見上げる。
「苦労など、あなたの妻になると決めた時から覚悟していたことです」
河原では相変わらず、未来の主従が延々石でもって水面に戦いを挑んでいる。
ぽちゃん、という水音がなんとも間抜けだが、確かに戦いなのだ。
「小十郎さま、私は戦にでることはありませんが」
蔦はまっすぐに、真摯な目を向けてくる。
「それでも小十郎さまと共にたたかっている、と思っているのです。たとえ隣でなくても、ずっと離れていても。ですからどうぞ――」
小十郎は思わず身構えた。妻の言葉の先の予想がつかない。蔦は、笑う。
「どうぞ、思う存分決意を貫いてくださいませ。私は私で、私のできることで小十郎さまをお助けいたしますから」
だが身構えた割に、妻の言葉は優しく、頼りがいがあった。甘えのような言葉を発せられたらどうするかと、それを思ったのだ。あるいは、必ず帰って来てほしい、というような確約できない約束を引き出そうとする言葉か。
「……俺は果報者だ」
「……え?」
「俺はお前のおかげで生きていける」
「……小十郎さま?」
蔦が困惑した顔をする。突然の感謝の言葉が、理解できなかったのだ。
小十郎は手を伸ばして、蔦の髪を一撫でした。美しく、泥に汚れることは決してない。火で焙られることも、誰にその髪が乱暴に捻り上げられるようなことも。そのようなことは、現実では絶対に起こり得ない。
――俺の命続く限り。
「……お言葉、大変ありがたいのですけれど……突然、どうしたんですか?」
「思ったことを、口にしちゃなんねぇか?」
「いえ……」
そう言って蔦は顔をそらした。揺れた髪から見えた耳が赤かった気がする。小十郎は苦笑する。
この女を妻に迎えてよかった、と思う。
「ちちうえー! おかえんなさーい!!」
川縁、土手の下から力一杯の声が上がった。目を向ければ、背後に標郷と秀直を従えた左衛門が両手を振って飛び跳ねている。部下たちはその後ろで頭を下げた。
さらさらと川は流れる。
橙に染まる水面は美しく、また優しい。きらきらと光があちらこちらに飛び散っている。
「ちちうえもするー?」
息子はきらきらと光る川面を背景に、父を水切りに誘った。
小十郎はおうと答えて土手に一歩踏み出し、ふと振り返る。見れば、蔦が小首を傾げた。
「お前も行くだろ」
手を差し出せば、蔦は笑う。
「ええ」
蔦が素直に手を重ねてくる。手を貸して、土手を下りれば息子が駆けつけてきた。
左衛門は父母の手を引いて、川縁まで進む。息子の満足するところまで来ると、小十郎は屈んで石を探した。胸をそらしてどの石がいいかというのをエンゼツしてくる息子に従って、蔦も石をいくつか拾ってみせた。
標郷と秀直は一歩下がって控えている。
それは穏やかな、夕闇が迫るまでのわずかな間の出来事だった。
やがて夕餉の香りがどこからともなくしてきて、
「奥さま、旦那様、坊ちゃま!! 御夕飯ができましたよー!」
という女中頭の言葉に振り返れば、下働きの者たちが土手で手を振っていた。暇だったのだろうか、それとも夕餉前の軽い運動のついでだろうか、主だった者たちが思い思いの姿勢でそこに並んでいた。
歓声をあげて土手を駆け上る息子を慌てて母が追う。さらにそれに続く二人の部下の背中に
「今日は食っていけ」
と言うと、二人は振り返り嬉しそうな顔をした。そしてまた二人は未来の主の後を追う。
小十郎はその光景を目に焼き付けた。


やがて日が暮れ、子も親も眠る。
朝が来ればまた戦いの日々に戻る。
陣触れの後、行軍はこれまでで最も長いものとなることが決まった。
それは竜のまどろみの旅だともいえるだろう。
目覚めの日は近い――そう先に目覚めた竜は思う。水面を見つめ、ごぼりとそれが波打つのを待つ。
それを見るまで、目覚めた竜は鳴くことはおろか身じろぎもしないだろう。
それは決意であり覚悟であり――誓いであった。
『梵天成天翔独眼竜』
かつて雲は「梵天、独眼の竜となり天翔けよ」とそれを読んだ。
目覚めた竜はそれを「梵天、天翔ける独眼の竜と成る」と読む日のために今はじっと耐えるのだ。
その日のために、蒼い竜を二度と後悔させないために。

伊達の一軍は南下西進し――やがて目覚めの日を迎えるだろう。
それまで銘を刻んで黒竜と号された刀の持ち主は、黙して語らぬ。

(了)

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あとがき  「蛟眠る」主要参考文献一覧

2014年9月15日初出
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