蛟眠る 第二十話
 其の参

――いや。
小十郎は木刀を握る政宗の右手を見、やめた。
木刀を握る政宗の手は異常に筋張っている。爪は見えないが、きっと白くなっていることだろう。
「功があったことも、刀をやったことも――忘れてねぇよ」
低く、低く聞こえた声は誰に向けたものだったのか。
しかし小十郎は悟った。
――この方は、主としての振舞いを忘れたわけではない。……できないのだ。
と。
小田原まで南下し、豊臣の進軍を阻むという目標と武力による衝突という手段を選んだのは他ならぬ政宗だった。
そして、その策はあっけなく一人の男によって砕かれた。
その後、豊臣秀吉の陣没により偶然にも豊臣軍の北上は止まったが、ただの偶然だ。そして統制を取り戻した豊臣の軍がいつ北上してくるかもわからない。
しかし迎え撃つための兵力は激減し、傷つき、疲弊している。
いま奥州は敵に向かって腹を晒さんばかりの状態なのだ。
そう、奥州の弱体化を招いたのは――他ならぬその筆頭、政宗なのであった。
その自らが招いた事態に怒り、刀を持つことはできても筆をとることはできないのではないか。
政宗は小十郎の部下、つまりは伊達にとっては陪臣にあたる者のことを「忘れていない」と言った。では直参のことは逆に忘れてしまったというのか。それはない、と小十郎は思う。
領地を得ることもなく、偶然が起きなければ豊臣は北上していただろう。
何も得られず、阻止もできず、死んだ者はつまり犬死だ。
それを引き起こしたのは己であるとの怒りと、在りし日の直参のものたちとの記憶が政宗を文机から遠ざけ、筆をとらせないのだろう。
――俺が今少し時流を読み、強く進言していれば。
あるいは。小十郎は起こり得なかったことを考えて首を振った。
――起こってしまったことには起こってしまったなりに対処するしかないでしょう?
それは夢の中の蔦の言葉だが――いま傍らにいる「小十郎の蔦」も同じことを言うことだろう。
「石田……三成……」
ふと、小十郎の思考のむこうからどこへ向けたでもない低い声が再び耳へ届いた。
――もしや。
その言葉、いや人の名に小十郎は思う。
――政宗様、怒りを直視できておられぬのですか。
だが問いは胸の中に留める。
政宗は聡い――梵天丸と呼ばれた頃には大人びた諦念すら抱えていた。右目を喪ったかわりに、視野は広い。それが伊達政宗という男であったはずだ。
しかし今は、その視野が陰っている。
確かに敗北と屈辱は石田三成という男の形をまとっている。
だがそれは泥の人形だ。
政宗の怒りは、やはりそれによって地へ叩きつけられたということなのか?
――先ほどまでの、自責の念を抱かれているという俺の見立てが間違っていたというのか。
小十郎は幾度目かの思案に沈む。
――では、石田を倒せば政宗様は国主としての矜持を取り戻されるのか?
違う――とどこから応えがあった。
石田を倒し、屈辱を晴らし、それで政宗が得られるものは何か。
恨みからの解放、それだろうか。
そこが政宗の目指す頂だというのか。
違う、とまた応え。
『京、上洛――天下』
それは政宗が幼い日、地図を見ながらつぶやいた言葉だ。
――政宗様の目指されるものは、天下。
奥州平定はその足場作り。
誰かを倒すという矮小な目標は、政宗は持ち合わせていない。
――石田が政宗様のなにか、であるならば、それは通過点にすぎない。
あるいは、自分に向けるべき怒りをかぶせた偶像。そしてそれを倒すということは、偶像を砕くということになるだろう。
脳裏によみがえるのは、夢で見た水底でとぐろ巻く竜。
――ご自身で水底を蹴らなければ。
怒りの偶像の気付かなければ。
――そもそも天下人の器ではない……か。
ヒュッと空気が割かれる音がして、小十郎の物思いは終わりを告げた。
見れば、政宗がまた素振りをしている。
太刀筋にやはり迷いはない。しかし、美しくはない。
空気は冷え、暗い。
「――政宗様」
呼びかければ、政宗は動きを止めた。
「本日はこれにて失礼いたします」
「……ああ」
すっと頭を下げ、ふたたびあげれば政宗はやはりこちらに背を向けたまま再び正眼に木刀を構えていた。
小十郎は立ち上がり、背を向ける。
元来た外廊下を辿り、愛姫のいた角を曲がる。そこで立ち止る。
――梵天、独眼の竜となりて天翔けよ。
蘇るのは、輝宗の声。
肩越しに振り返れば、政宗はまだ空を切りつけている。
――いや。
少し離れてみれば分かる。
――負けたと言って不貞腐れることもなく、哀しいと言ってふさぎ込んでおられるのではない。
わかりやすい怒りやいら立ちはもちろんよく見える。
密やかな後悔も。
だが刀は捨てておられない、と小十郎は気づいた。
たとえそれが怒りやいら立ちを発散するためであっても、後悔を紛らわすものであっても。
――刀は捨てておられないのだ。
そして、振り返って主をしっかりと見る。
政宗の背はまっすぐにのび、顔は決して俯いてはいない。
「……竜は水底を蹴る」
小十郎は思わずそれを言葉にしていた。
「必ずや滝を登り、雲に乗り、遥かなる梵天へ――」
言葉にすれば、情景が見えるようだった。
蒼い竜がぐいと身を伸ばし、水の流れすら振り切って水面を飛び出し、滝を駆け上がり、そして雲に乗る。そして竜は雲の上で更に上を――光輝く天の先を見上げるのだ。
小十郎にはその景色がよく見えた。
「その日のために、俺は」
小十郎は右目に触れた。
そこで小十郎はふと、ひとりごとを重ねていたことに気付き、その先を言うのをやめた。
言葉にしなかった覚悟を胸の奥にしまい込むと、小十郎は再び踵を返し政宗の元を退去した。

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