蛟眠る 第十九話
 其の参

与えられた職務をこなし、昼餉を済ませ、小十郎は久方ぶりに政宗の居室に訪ねていくことにした。
今後どうするのか、という話もある。もちろん、主の様子見の意味もある。
昼であるから、小十郎はごく自然に政務の間を目指した。
風が心地よく、空気は澄んでいる。歩くにはちょうどいい日和だ。腹ごなしにもなるだろう。
長い外廊下を行き、その途中。
前方、角に隠れるようにした影を見つけて小十郎は驚く。
美しく広がる打掛。小十郎は女物の意匠のことはわからない。だが花を散らす鮮やかな色合いはその人に相応しい。春の里からやって来たその人には花がやはりよく似合う。
「――愛姫様」
その名を呼べば、その影がびくりと振り返った。そして、声の主が誰であるか気付くとほっと息をついた。
「小十郎殿でしたか」
小十郎はふと首をかしげた。ここは表である。男たちが立ち働く、政務と軍議の場。公の場である。
奥――女の立ち働く、表と隔たった国主の私的な場所を司る愛姫がなぜここにいるのか、と思ったのだ。
「小川となかに頼んで、入れてもらったのです。無理を言いましたから、叱らないでやってくださいね」
小川となか、とは侍女を取り仕切る老女のたちだ。ふと見れば、恐縮したような年かさの女二人が愛のすぐ近くに控えていた。小十郎はそちらに目礼し、遅ればせながら膝をつく。首を垂れようとすると、愛姫が口を開いた。
「……いま政宗様が抱えているのは」
小十郎は顔をあげる。
「わたしが立ち入っていい問題では、ありませんね」
見上げれば、愛は寂しげな笑みを小十郎に向けていた。
「……おそらくは」
小十郎は真正面からその視線を受け止める。
「誰も立ち入れるものではないかと。……政宗様がご自身で乗り越えられることです」
愛はまた笑う。寂しげに。
「それでもきっと――何か起こった時に、政宗様を導けるのは……叱れるのは、きっと小十郎殿なのでしょうね」
「愛姫様……」
「……その時は、どうか、よろしくお願いいたします」
愛は深く、深く頭を下げた。
「……頭をおあげください」
小十郎は背筋を伸ばす。そして、年若い国主の奥方に言う。
「……愛姫様は、政宗様の還りつく場所であらせられます」
「……?」
愛が顔をあげ、低い位置にいる夫の臣下に首をかしげる。小十郎は静かに言う。
「この小十郎は、あくまでも長い道のりの供にすぎません。天下、あるいは泰平の世という道の。辿り着いたら、後は帰りがあります」
「帰り、ですか?」
愛はひどく不思議そうな顔をする。天下あるいは泰平という頂上に登りついたらそれで終わりではないのか――おそらくは、この世の大半の者がそう思っているのだ。
「……頂にあっても、麓を忘れれば人は必ず道を外れます。ましてや人は永遠に頂にいれるわけではありません。下る日はいずれやってきます。それは頂から引きずりおろされるということかもしれませんし、あるいは誰かにその場所を譲るという形かもしれません。――……あるいは休息のために、かもしれませんが」
愛は小十郎の言葉にじっと耳を傾けている。
「その頂を支える麓、あるいは、下る日の帰る場所、休息の場所――その場所になれるのは……愛姫様だけだと存じます」
愛はしばし目を見開き、その後今度はわずか明るく微笑む。それは、決して小十郎の言に勇気づけられた、という喜びの笑みではない。夫の年上の臣下が、自分を励ましてくれたということに気付いた優しい笑みだ。
「出過ぎたことを申しました。お許しください」
小十郎が気づいて深く頭を下げると、愛は首を振った。
「いいえ……ありがとう」
小十郎は平伏した。その間に、愛は音を立てないようにして奥へつながる方へと、歩いて行った。

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2014年9月12日初出
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