蛟眠る 第十八話
 其の参

その時だった。
ぱたぱた、というわずかな水が床へ落ちる音。そしてくぐもったようなうめき声。驚いてそちらを見れば、秀直が床へ突っ伏していた
ぐうとも、おおとも、なんとも表現しようがない押し殺した声が頭を取り囲むようにした腕の中から響いてくる。
左衛門も驚いて、母の膝から飛び降り、父の、いずれは自分の家臣の元へと走り寄った。
「ひでなお、どしたの? おなかいたいいたい?」
左衛門はぺったりと床に腹をつけて、自分よりうんと年上の家臣の様子を探ろうとしている。
「いたいのないないよ、ないない」
左衛門はいつも蔦がそうするのだろう。秀直の頭を小さな手で必死に撫でている。やがて秀直も落ち着いたのか、顔をあげ姿勢をただした。ただ鼻を真っ赤にして、頬にはぼろぼろと涙が落ちた跡がある。左衛門は必死に伸びあがって、自分の袖で涙の跡を拭いてやった。
「もっ、もったい、な、き……」
秀直は泣き声のむこうで若君に礼を述べようとする。だが息が詰まってうまくいかない。
左衛門は必死に秀直の額のあたりを撫でている。
「……若」
そこへ、標郷が声をかけた。
左衛門は可哀想に、またびっくりした。
標郷もまた、泣いていたのだ。だが標郷は幼い未来の主の手を煩わせず、ぐいと自分で顔を拭った。
「標郷も秀直も、どこもいたくはありません。ただ寂しいのです」
「さださとが、とおいところでおしごとだから?」
「そうです」
「じゃあ、ぼくといっしょ?」
「ええ」
――恐らくは違う、と小十郎の冷静な部分は思う。死を理解できない幼子と、肉親を喪った大人。そこに差はあるだろう。だが標郷の言葉はその小十郎の冷たい思考――もちろん心の底では無念であるが、小十郎は結局定郷の肉親ではない――にも、まだ幼い左衛門にも優しいものであった。
「若……水切り、ですが」
そして、標郷はまっすぐ左衛門と向き合った。
「標郷も秀直も、定郷のように二十こも飛ばせません。けれど……二人合わせれば二十一になる時があります。いつか定郷に負けないように、三人で稽古しませんか」
「にじゅういち? ぼくはみっつできるよ! みんなでにじゅう……にじゅう……!」
「二十四、よ」
蔦の助け船に左衛門はにっこりとし、右手の人差指と中指を作り二を、それから左手で親指を折って四を作って標郷に示した。
「ほらもう定郷に勝っていますよ!」
標郷は明るく言った。けれどその目には。小十郎が複雑な思いで見つめていると、息を整えた秀直が左衛門に言った。
「稽古しましょう! いくらでもお手伝いします! 三人で百飛ばしてみせましょう、兄貴、びっくりしますよ!」
「うん!」
「――左衛門」
泣き笑いの佐藤の兄弟と、満面の笑みの息子。その光景に、無意識に小十郎は息子の名を呼んだ。
そして。
「『どうか、約束を守れない無礼をお許しいただけますように』、と……」
それは、不意に小十郎の脳裏に響いた定郷の声を無意識に紡ぎ出したものであった。だが小十郎はついに理解した。あの悪夢。最期の定郷は――所謂「夢枕に立つ」というものであったのではないかと。
「左衛門、定郷のこと、許しちゃくれねぇか」
小十郎が主というより友として父として続けて言うと、左衛門のむこうで部下二人が目を見開いた。左衛門は少し首をかしげ、うん、と言った。
「いいよ。だいじょうぶ、たかさととひでなおにならうから! こんどあったら、ぼくが、かつの!」
それは子供らしい、前向きな言葉だった。ふてくされたところなどひとつもない。素直な息子に小十郎は感謝した。
隣で蔦が目元を拭う気配がした。

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