蛟眠る 第十七話
 其の参

「次郎さん、横に」
定郷は仮名の次郎右衛門のうち、「右衛門」の部分を秘して村へ通っていたらしい。さらには「定郷」という諱を誰も知らなかった、と男は言った。
娘が定郷を寝かせようとすると、定郷は嫌がるそぶりをした。傷に響いたのだろうか。もはやその理由はわからない。それで仕方なく、娘は粗末な土壁に定郷をもたれかけさせた。
男は定郷が頼るように握っている鉤槍を
「預かります」
と言って取り上げた。それから、娘の父と母に「手伝ってください」と言った。
具足を解いて楽にさせなければならないのだ。きっとそうすれば横になってくれると男は思った。
男はまず、定郷の腰のあたりに目を落とした。そこには刀がある。槍使いも刀を佩くのだ。間合いが近い敵に槍は弱い。そのために刀を佩くのだ。
しかし男はまずそれを外そうとする父親を止めた。刀を外さなければ胴は解けない。訝しむ娘の父を男は表情と目でもってなだめた。
その刀は、定郷にとって相棒たる鉤槍よりも大切なものだ。男はそれを知っていた。なぜ彼がそれを知っていたかは彼が定郷を知っていた理由と重なる。
「佐藤様、刀もお預かりいたします。決して粗末にはいたしません」
男が定郷の顔を覗き込んで丁寧に言うと、定郷は逡巡の色をわずかに瞳にのせたがひとつこっくりと頷いた。
男が丁寧に刀を腰からはずし脇へ――定郷の視界の中にあるように注意した――そっと置くと、娘の父母が具足をの戒め解き、胴を外した。乾いた血が細かくなってパラパラと落ちる。それでもわずかまだ出血は続いているらしい。防具一式を運ぶ父と入れ替わりに定郷についた娘は母と共に定郷の体を清め、傷の場所を確かめようとする。娘の弟妹たちは朝でもないというのに水汲みに出て行った。
胴には無数の傷と――赤黒い穴がひとつ。
それは取り返しのつかない傷だった。
娘はそこへ手拭いを当てた。手拭いはみるみるうちに朱に染まった。
……胴をしたままの方がよかったのだろうか、その方が締めつけで血は止まっていただろうかと男は一瞬思った。具足を片付けて覗き込むようにしていたこの家の主人が男に小さく首を振った。主人の妻はそれを受けて、娘を見やった。娘の瞳にみるみるうちに涙が溜まるのを男は見た。
「次郎さん、横になりましょ」
娘の母が優しく言うと、定郷はわずか頷いた。
娘が薄い布団をのべて、定郷は横たえられた。男はそのすぐ隣についた。定郷が気づいて、男を見上げた。
「……残りの者は」
「村の皆で手分けして手当てしておりますよ」
明瞭でなくなってきた定郷の言葉に、男と対する位置についた娘が言う。定郷は「そうか」と言って彼女を見、やがて顔をまっすぐ上向けた。娘の父はなにやら家から出て行った――おそらくは、村の男衆たちとこの事態をどうするか相談しに行ったのだろう。
土間におりた母が娘を呼んだ。男は残されて、独り言のように言う。
「……情けなくも生き残っちまいました……殿軍に志願したのに」
「……情けなくも……」
定郷がうわごとのように繰り返した。そして
「どこがだ……?」
と言った。静かな声だった。
男はきょとんと定郷を見る。定郷は続けて言った。
「生き残って、何が悪い」
「でも……」
「敵は最悪、国元へ押し寄せるのは防げた。そしてお前は生き残った。……何が悪い?」
「しかし……」
「死んだ者に申し訳が立たぬ、と……? 死んだ者はたしかに立派だよ、命投げ出して己の里を護ったんだからな。……それで生き残ったお前はこれからどうする?」
「……家に戻って……畑や田んぼを……やるでしょうね……」
――友を弔いながら、と続ければ定郷は
「それでいいじゃないか」
とわずかに笑った。
「生まれて祝って、死んで弔って……それが人のいとなみだろ。国に戻って田畑を耕して、腹いっぱい飯食って……それが、国力ってもんだろ」
男はじっと定郷を見つめた。定郷は男を見てはいない。闇に溶ける粗末な天井を見るとはなしに見ている。彼が見ているのが少し頼りなさげな梁なのかその上の茅葺の底なのかはわからない。
「武力で衝突するのは所詮一時のことだ……その後の平穏こそが大事。衝突するにしても兵糧だって必要だろう……食わなきゃ国は守れない……そうだろ」
男は一瞬あっけにとられた。しかし、確かにそうだ。男は始終兵ではないのだ。春には苗を植え、秋には刈る。夏には種も植える。日々の糧は土から得ているのだ。
定郷の声は静かで、どこか弱々しい。けれど、その声の中には強い意志と確信があるようだった。
「衝突するのもそもそもがお国のためだろ……女房子供のためだ……領地広げて田畑広げて……今は国主の矜持がなんとかというが……根っこはそうだろ」
それを聞いて男はかつて、国主政宗が一人の農民の娘と交わしたという約束を思い出した。
――この日ノ本を良い国にするという約束だ。
「そうだ……生きていいんだ。長らえてこそ、お前はさらなる伊達の力となる」
男はその言葉に定郷の言いたいことを理解した。そして何度も何度も――深く頷いた。
「……へい」
と言う言葉が震える。赦されたのだ、と思った。
それを聞いて定郷はさらに笑みをひろげ――そして、せき込んだ。
体が横を向き、身が縮まる、湿った咳。離れていた娘が飛んできた。
「次郎さん!」
娘は定郷の背に手を当てて、擦る。咳の合間に、定郷は娘を振り返って言った。ヒュウウ、という息遣いが言葉を不明瞭にする。
「俺の具足を……薬の足しにしてくれ。売り払っても、溶かして鍬にしてもいい……」
「そんなこと気になさらないで」
「俺のためじゃない……こいつらのためだ」
定郷が息をついて男を見た。「こいつら」とはつまり、男をはじめ伊達の負傷兵たちのことだった。そして、男を見つめて定郷は言った。
「刀を……」
言われて男は慌てて刀を取り上げた。定郷がもがいて起き上ろうとする。娘はそれをやめさせようとしたが、結局定郷の意志に折れて布団の上に座らせた。
定郷はなんとか咳を収めて男から刀を取り上げて、それを大切そうに見下ろした。
そして、恭しく娘にそれを差し出す。
「ただ、これだけは溶かしてれるな――よい所に売り、糧にしてくれ」
「いけません、それは――!」
その由来を知る男が言いかけると、定郷はそれを静かに目で制した。そして、娘の手を取り刀を握らせる。娘の手の上から刀を握って、定郷は言う。
「これは価値のあるものだ――俺にとっては過ぎたるものだった。役立ててくれ」
「でも」
娘は愕然とする男の気配を察したのか、戸惑いを浮かべた。定郷は弱々しく笑う。
「いいんだ、きっとあの方も赦してくださる――生きるための糧にしてくれ」
「……はい、……きっと」
定郷は刀から手を離した――託された娘が大切そうに胸元に引き寄せる。
その時だった。
ふっと、定郷の目が現を見るのをやめた。
「次郎さん?」
「佐藤様!」
がっくりと顎が落ち、男と娘は慌てた。
「次郎さん!」
男が倒れかけた定郷を抱え、娘が声をかける。肩を叩き頬に触れ、次郎さん、と何度も呼びかける。
けれど、定郷が娘を見ることは二度となかった。
「……陰に日なたに忠を……」
「佐藤様」
聞こえたのは、うわごとのような言葉。
定郷の目はもはやどこも見ていなかった。それでもと男は耳を澄ます。
「……水切り……約束……お許し…………露払いとして――」
それだけが聞こえ、定郷はついに沈黙した。ヒュッと息をひとつ吸った後全身がふるえ、そして弛緩した。目から光が消え、瞼が落ち、そして二度と開くことはなかった。
男も娘も、ついぞ最期の言葉の意味を理解できなかった。

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