蛟眠る 第十七話
 其の弐

……時は逆巻いて、半月ほど前、伊達軍撤退の途上である。
野武士の群れに襲われた伊達軍は殿軍を置いて撤退の速度をあげた。
男は国元にいる家族を守るため、殿軍に残ったという。
ここで自分が踏ん張れば、国元へ――里へ、家族の元へ賊が辿り着くこともない、そう思ったのだ。
命投げ出しても――その時はそう思ったのだと。今もその思いに嘘偽りはない。
そして、殿軍に対に狩りの連中が追いつき、うち一人の野武士と男は刀を打ちあいになった。小田原からの撤退で疲労した男の体と、おそらくはそこら辺から出てきたであろう野武士では力に差がありすぎた。
鍔迫り合いになり、力負けして吹きとび地に伏せたところで、男の脳裏に再び国元の家族が浮かび今度は、死にたくない、と思ったという。これもまた男の嘘偽りのない感情だった。
野武士は幸いにも倒れた男の首には興味はないようだった。具足も刀も価値なしと思ったのだろうか、足蹴にされただけで奪われることもなかったという。
男は剣劇の音が響くその下で、時が過ぎるのを待った。
働き者で気の強い妻、五つになった娘、生まれたばかりの息子、老いてなおよく働く父母――それらが彼を殿軍に留まらせ、そして今はその家族のために生きて戻りたい、と地に伏せさせたのだった。
やがて剣劇の音は引いていき、あたりにはうめき声のみが残ることとなった。
――死にたくない、生きたい。
体中に打ち合った、そして打たれた痛みがある。左腕には血の流れる切り傷。右の小指の爪は半ばからはがれていた。それでなくとも爪と言わず、指先と言わず、手はボロボロだった。足もあちこち腫れている。だがどれも重症ではない。どこもなんとか動くので、腱は切れていないだろう。男はそろそろと身を起こし、その左腕の傷をおさえた。右の小指がギシギシと痛むが、腕の血を止めなければと思ったという。
幸い、男はあちこち切られていたが相手の刀がなまくらだったか、指や足首を持っていかれていることはなかった。
しかし手足にはひどく疲労がたまり、動けない。むしろ怪我よりも撤退の疲れが彼を苛んでいた。
男は腕を押さえたままごろりと寝ころんだ。胴の辺りがきしんで思わずうめく。
見上げれば――空。橙色の、憎らしいほど美しい。視界の端の森の木々は陰影を深くし、夜がすぐそこまで来ていることを伝える。風はなかった。
――国にいたら……畑を耕して、田を起こして稲を植えて……そんで帰る時の空の色だぁ……。
その色と気配に思い出すのはやはり国元の家族だ。
妻と父母と日がな一日野良仕事をして、近所の子に預けていた娘がいつの間にかやって来ていて「おっとう、おっかあ、じいじ、ばあば」と呼びかけてきて、帰ろうと畔から声を張り上げる……。
それがひどく遠いことのように思える。眠い、と男は思った。そうして眠って瞼を閉じて、そして開ければ家に帰りついているのではないか……そう思って、目を閉じた。
そして、すうっと意識が闇へ転がり落ちようとした頃。
「立てる者はあるか」
そう声がした。
男はゆっくりと目を開けた。そして、肘をついて――切られていない方、血が出ていない方だ――起き上り、辺りを見回した。
「立てるものはあるか」
決して大声ではなかった。むしろ絞り出すような声だったことを男は覚えている。
声を辿れば、幽鬼が一。男は思わずひっと声をあげて肘を使って後退してしまったが、よくよく見ればそれは人間だった。
逢魔が時の気配と色が男を恐ろしく飾り立てていたが、たしかに人間だった。
穂先を天に向けた槍を杖がわりについた、ひとりの男。
背は丸まり、覇気も乏しい。だが、強い意志の宿った眼がギラギラと光っていた。
男は慌てて立ち上がり、その幽鬼のような男に近づいた。他にもひとり、ふたりと男に続く。
「いたか」
男は顎は力なく、眼だけで集まった者たちを見まわした。
「ここから、北に少し……村がある。伊達に好意的な村だ。そこまで行ければ、なんとかなる……だれか、俺に手を貸してくれ」
男はそこまで言うと、ふらついた。鉤槍が橙の天で弧を描いて、男はあわてて駆け寄った――そこで、男は幽鬼のようなそれが佐藤定郷だと気付いたという。
――片倉様の旗下の佐藤様といえば、政宗様からも幾度も恩賞を賜っておられましたから。
男は回想の間にそう挟んだ。
定郷を抱え、その指示に従って男は歩いた。その後ろに両の指の数よりは少ない、五体満足とはいえない者たちがついて来た。互いに支え合いやっと進む者たちもいる。
四半刻ほど歩いただろうか、目の前に村というより家々が肩寄せ合ったような集落が現われた。村はシン、と静まり返っている。もう夕飯を終えて、休もうというところなのだろう。その気配は男もよく知っていた。
空にはいつの間にか宵の紺が広がっていた。田畑はかろうじてその陰影を紺の濃淡の中に示すだけで、いままさに闇に沈みこもうとしている。
家のひとつが近づくと男の肩にすがるようにしていた定郷の手に力がこもった。男が痛みを覚えるよりも早く、定郷の大音声が彼の耳を打った。
「誰か――誰かあるか、次郎だ」
強くも柔らかい――子どもに呼び掛けるような声でした、と男は言った。
誰か――定郷がもう一度そう言い、むせた。体を縮める力があまりに強く、男は引っ張られてしまった。しかしなんとか倒れずに耐えている間に、一番近くの家の戸がそっと動いた。
恐る恐る、という体で顔をのぞかせたのは若い娘だった。
そして、男が抱えるようにしている定郷に気付くと、あっと声をあげた。
「次郎さん!」
その声に、娘の両親らしき二人と弟妹のような者たちも顔を出す。
飛び出すようにした娘の行く先を目で追って、父が声をあげた。
「こりゃあ、大変だ! おおーい、皆、次郎さんが!!」
娘を追って飛び出しかけ、父は思い直したように集落の方へ向き直り大声をあげた。
するとあちこちの家の戸がゴトゴトと動いた。幾人かは不審そうに、幾人かは驚いたように顔を出し、そして定郷と兵たちを見つけてあわてて駆け寄ってくる。
闇と静けさに沈んだ家々から静寂が去った。慌てて駆け寄ってくる村人は口々に何事かを呟いていて、男は音で寄せる生の気配に唖然とする。そして、そのうち灯りを持ってくる者も現れ――先ほどまでの橙と異なる、人による暖かな光に男は思わず泣きそうになった。
その間に、最初の娘が定郷の元へ辿りついて彼に手を貸していた。
「次郎さん!」
「追手はない……大丈夫だ。この者たちは伊達の兵だ。手当てしてやってくれないか」
定郷がそう言うと、集まってきた村人たちは即座に散った。娘とその家族は男から定郷をひきとった。男は一番小さな娘――男の五つの娘よりいくらか年かさといったところだった――に伴われて、その後を追った。

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