蛟眠る 第十六話
 其の参

「お散歩に出ましょうか」
夕刻――ぼんやりと庭を眺めていたところへ蔦がやってきた。
橙色の光が彼女を包んでいる。陰影は濃く、しかし優しい。
風も優しく心地いい。
「ああ――そうだな」
目覚めて以来遠ざかる夢の中で小十郎は蔦を喪った。日常空気のような存在が喪われるというのは夢の中とはいえ想像を絶した。小十郎は自分が蔦をなくしても生きていけることは知っていた。政宗の側にあり、職務を全うする。それが彼の生涯の使命であり、天命であることは変わらない。
だが、それだけの人生はあまりにも空虚だ。
小十郎はもう知ってしまっていた。蔦や左衛門、家中の者たちがくれる幸福を。
それを突然手放せと言われたら、苦しむことを。
小田原から国元への撤退時、そして徳川の来襲時一時それを忘れた――だが彼はそれを思い出した。あるいは、毒吐く主の気配――主は幾度もの喪失の経験からそれを知っている筈なのだが――に侵されて、忘却していただけなのかもしれない。
起き上って歩けるようになってきたこの頃は、蔦が夕暮れ時になると散歩に連れ出してくれるようになっていた。
最初は外廊下から庭を眺めるようなもので、より回復したところで庭へ下り、今は屋敷の周りをひと回りするようになっていた。
この日も庭をめぐった後、正面から表へ出ようとした。
その夫婦の進路、屋敷の門のところに歩みを止めさせる要素があった。門の敷居のむこうに、秀直が座りこんでいる。そしてそこへ標郷が歩み寄っていくところだったのだ。
「……もう帰る時間ね」
蔦が静かにそう言った。その間に標郷は秀直の元に辿り着いた――だが末弟は振り仰いですぐ上の兄を見ただけで、立ち上がらない。しばらくすると、標郷はため息をついたのか肩を上下させた後、敷居をまたいでから門へ寄りかかった。
この頃、夕暮れ時あの兄弟はああしていることが多いのだ。
二人でぼんやりと、通りを眺めて何かを待っている。
「……定郷は皆のお兄さんでしたから」
蔦はぽつりと言う。
「私、お兄さんが欲しかったんですよ。姉はいましたれど、近所の友達のお兄さんが羨ましくて。定郷って生まれつきの兄さんだったでしょう? だからなんだか私、ここへ嫁いでから定郷といろんな話をしました」
小十郎は目を見開いて傍らの妻を見やった。それは小十郎の知らない蔦と、定郷の話だった。
「嫁いだばかりのころは、虚勢を張るのもうまくいかなくて。小十郎さまはお城のこともあるし、うまく相談できなくて。定郷によく話を聞いてもらいました」
その時わずか、小十郎の胸に湧いたのは嫉妬だったか。しかしそれも門のところにたたずむ弟二人の背中にすぐに鎮火してしまい、なんであったのかはわからない。
「――いろいろお話していたら、『そのお話は、ちゃんと殿になさいませ』とか。内心うんざりしていたのかもしれませんけど、よく話を聞いてもらいました」
おそらく定郷のことだから、何か手を動かしつつ片耳だけ蔦に貸していたのかもしれない。しかし。
『そのお話は、ちゃんと奥さまになさいませ』
蔦の言った台詞の中に仕込んだ人物の名称が入れ替わり、小十郎の脳裏に響いた。
たしか何かの酒席だったか。瑣末なことを定郷にボツボツと愚痴のように言った時のことだ。蔦とうまくいっていない、とかいう話ではない。気負い過ぎた彼女にどう接したらいいかわからなくなったというような――ごく新婚の頃の、のろけと愚痴の間のような話だった気がする。
「その話は、ちゃんと奥さまになさいませ。まったく、妙な所で性分が似ていらっしゃる。夫婦とは支え合うものだとおれは思いますよ。喧嘩でもなんでもなさればいい。睦みあうだけが男女というわけでもないでしょう。喧嘩でもなんでもして腹をさらけ出して、そして瑣末なことを気にする暇があったら――終生、大事になさいませ」
終生大事になさいませ――その言葉を小十郎は定郷の声で二度聞いた気がした。
「……俺が末子で、悪かったな」
何か言うべき言葉を探して、むくれたように口から出たのはその台詞だった。
蔦が目を驚いたように見開いて見上げてきた。そして二、三度その目をパチクリさせた後――彼女はにっこりと笑った。
「あら。私、小十郎さまが弟の性分でよかったと思っているのですよ。弟だったら、扱い方知っておりますから」
思わぬ回答に今度は小十郎が目を見開くと
「特に、甘やかされた末の弟は大得意です」
と蔦は大きく笑って言った。その笑みが喜多と重なり、小十郎は苦笑した。定郷の助言は役立ったのかもしれない。
「たかさとー! ひでなおっ!」
笑いあう夫婦の注意を引く声が、表玄関からあがった。見れば左衛門がなにか包みを大事そうに胸に抱えて飛び出してきた。門の方で、呼ばれた二人が振り返る。そして兄弟はこの屋敷の御曹司だけではなく主夫妻に気付いて慌てて姿勢をただした。
大きな部下の元に辿り着いた左衛門もくるりと振り返る。
「ははうえ! ぼく、たかさととひでなおとおんもにでてくるっ!」
やはり大事そうに風呂敷包みを胸に抱えて左衛門は力いっぱい叫んだ。
蔦は笑う。
「はーい! ふたりとも、たのみましたよ!」
蔦が言うと標郷と秀直が会釈をした。それを見届けて左衛門は走っていく。秀直があわててその横に並び、標郷は二人の後に小走りで着いていく。
「最近、ずっとああして三人で出かけるんですよ」
いやに慣れてるな、と部下二人の様子にふと思った小十郎の思考を読んだかの如く、蔦が言った。
「……左衛門が持っていた包みは?」
大事そうに息子が抱えていたものの正体を尋ねれば、蔦は少し考え込んだようだった。
「あれは……左衛門の願掛けのようなものです」
「願掛け?」
「ええ、河原で。……いまは、標郷と秀直も、でしょうか」
小十郎が目で促せば、蔦はそっと目をそらした。
「私からの説明は、お許しください。願いがこぼれてしまいそうで」
小十郎は三人が消えた方へ目をやった。少し間を置いて「行ってみましょうか」と蔦が歩きだした。
いつもならぐるりと屋敷をめぐるだけの筈が、蔦は屋敷を出て右手、川を隔てた町のほうへ歩き出した。いつもなら三歩遅れてくるような妻が今日は先導する。
城から侍屋敷の通りを経て城下町へと繋がりをつくるのは、一本の橋だ。そのすぐ近くに、河原へと降りる細い道がある。蔦はそこを少しばかり過ぎて橋に乗ると擬宝珠に隠れるようにした後、小十郎に手招きした。
小十郎は大きな体を小さな妻の背中に隠すようにして、擬宝珠に近づいた。蔦はすぐ後ろに立ち自分の背に腹を付けるようにした夫を見上げた後、すっと河原を指差した。
そこには河原に蹲る大きな影が二つと、小さな影がひとつ。橙に染まる河原でうぞうぞと影を引き連れて動いているのは、標郷と秀直、左衛門だ。
「……?」
蔦が指を指していた手を下げ、欄干に手を添えた。小十郎もその隣を掴み、蔦を抱えるようにして彼女の肩越しに河原を覗き込む。
先ほどまで左衛門が抱えていた包みは河原の大きな石の上に置いてある。そこを中心に、三人がもぞもぞと河原を動いていた。時折、左衛門がやおら立ち上がって標郷と秀直のうち近くにいるほうに近づいて何かを見せるようにする。すると見せられた方が頷いたり首を振ったりする。左衛門は頷かれると包みの傍へそれを置きに行き、首を振られると河原へポイと握っていたものを無造作に投げ捨てた。そんなやりとりをを三人は飽きもせず幾度も幾度も繰り返している。
やがて小十郎の耳に、川のせせらぎと共に左衛門がポイと何かを投げるとカーンという石がぶつかり合う音が発生しているのが届き始めた。
「……石を集めているのか」
「ええ」
なぜ、そんなことをしているのか――しかも、いい大人である標郷と秀直まで。
小十郎が蔦にそう問おうとしたときのことである。
「――ッ」
――鈍痛。
こめかみのあたりに鈍い痛みがせりあがってきて、小十郎は空いた手を片方そちらへ添えた。目の辺りに急に凝りがでてきて、視界を苛む。
「小十郎さま、お加減が優れませんか」
腕の中で蔦がパッと振り返る。体を完全にこちらへ向けて、こめかみに添えた手に触れてくる。
「戻りましょう、ね」
心配そうに見上げてくる女の顔が妙に愛おしい。
それほど弱っているわけではないが、なにとなく夕暮れがそうさせたのか。寄り添ってくる蔦の肩に手を回し、歩行を助けてもらう――蔦もまた、夫の腰のあたりに腕を回し、もう一方を帯の辺りに添えて彼を支える。
――在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝。
その蔦の手と存在に、痛みのむこうに耳慣れぬ少年の声で白楽天の詩を聞いた気がしたが、小十郎は同時に天子が抱いた綿々と続き癒えることのない悲しみとやらを味わうことはないことも――仔細は不明ながら――なぜか少年の声で知っていたのだった。

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引用:白居易『長恨歌』
2014年7月13日初出
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