蛟眠る 第十六話
 其の壱

倒れた弓は蔦が徳川の来襲時に蔵から引っ張り出し、弦を張り、そのまま伊達家中の夫人として愛姫の護衛に出た時のものだという。小十郎が倒れて運ばれてきて何もかも捨て置いて看病に入ったため、片付ける時間がなかったためそのままにされていたものだとも。
そんなことがあったのか、と小十郎は思う。
そもそも実は国元に戻ってからろくろく蔦と顔を合わせた記憶がないのだ。
しかし記憶の片隅に、額に鉢巻き、袖はたすきで上げた蔦の姿が確かにあった。
――これより奥方様の側に参ります。左衛門は女中たちに任せております。
眠る政宗を見守る背中にそう声をかけられた気がする。なんと返事をしたのかは覚えていない。
……そんな蔦をみたから、あんな夢を見たのか、とも思う。
そしてその左衛門は、女中たちと蔵に籠り、玩具の脇差をギュッと握っていたという。
――俺は左目すら曇っていたのか。
妻に武器を取らせたこの有様。年端もいかぬ息子に武士としての覚悟をさせたこの体たらく。
徳川との決闘のあと気を失い見た夢は、そこで出会った人物が言うには「起こりえた可能性をみせる悪夢」だったという。
蔦を貰わなかったというありえない人生――あるいはありえたかもしれない人生――が一炊の夢の中で展開されたが、そのすべてが虚構であったわけではない。
疲弊した精神が見せたもののなかには、かつての出来事もあった。
途中までの蔦との見合いは記憶のままだった。政宗――梵天丸の――の右目をえぐったあの日、地下牢の不気味な冷たさ、輝宗から下賜された黒龍、輝宗の死、基信との最期の会話、小次郎の成敗、新しくなった主の居室……そして竜は落ち、小十郎の一の部下は殿軍に残った。
それらはすべて事実と――仔細は異なるところがあるものの――合致する。
そう、足りない、と思った佐藤の兄弟のうち一番上の兄定郷は現でも殿軍に残ったのだ。
そして、今に至るまで戻っていない。


傷は重ねれば病と同じく重くなる。開いた傷は小十郎の身を苛んで、しばらく彼を城から遠ざけることになった。
遠ざけることになりつつも、伊達の軍師あるいは政宗の近侍という役割が後ろに回っただけのことで、片倉の主としての仕事が彼の手元にどっさりとあった。
だがそれでも表には出ず、私室に文机を用意させて墨をする。袴は着けずに着流し姿で向き合うのに違和感はあるが、胴の傷を刺激しないためにはそうするしかない。
――川口某。
――村上某。
――工藤某。
紙に書きつけるのは慰めと感謝の言葉、そしてわずかばかりであるが、思い出。
皆、死が確認された小十郎の部下である。留守を守った者たちに従軍した者たちの負傷の仔細や、死を見た仲間たちのことを聞きとらせた。それをまとめたものが小十郎の傍らにある。
負傷した者たちには傷がいえるまで暇を与え、もはや仕官の難しい者には新しい職を世話してやる。
そして死んだ者たちにも、家族があった。
小十郎はその者たちの家族のために筆をとり、いかに彼らが片倉、ひいては伊達の役に立ったかを述べ、金子か、あるいは子があるものにはその子の将来の保証をしてやった。それぞれの家族は喪失の悲しみを抱えつつも、当座の糧と一代先の士官先を得てむしろ小十郎に謝意を示す。
その慰撫のやり方は、小十郎が伊達で学んだものであった。
そしてそれを得意とし、だが誰よりも心をこめたのは他ならぬ主政宗であった。
戦の後の処理というのは膨大で、普通であれば渡す金子の額や身の保証といったものは国主自らするものではない。実際、具体的なことをまとめるのは綱元以下内務を任された者たちである。
だが政宗はすべてを任せきりにしなかった。
目通りを許された身分以上の者の保証に関しては必ず目を通し、過不足があれば朱を入れて綱元に戻し、そちらの無味乾燥な書状が出来上がれば、それに添える自筆の書状を――亡くなった者との思い出、あるいは記憶に強く残った功績などを記した書状を添えさせた。
他家ではそうした慰めの書は右筆が拵えることが多いと聞くが、政宗はそれを潔しとしなかった。
政宗の父輝宗は家の日記を自らで付けていた。小十郎はその時は知りえる身分ではなかったが、戦の後輝宗も政宗と同じように慰めの手紙を書いたのではないかと思う。あるいはこのようなふるまいはもっと前の世代に遡るのだろうか。優しい父が息子に与えた影響は意外と大きく、政宗は意外にも伊達の家風を護る所があるのだ
ともかくも、それは間違いなく政宗の美点であった。
そして小十郎は――家を持ち得なかった男は――十年下の主のその背から、主としての振舞いと有るべき姿を学んだのである。
だが、この度は。
城から颪のように下りてくる噂は、政宗が主としての振舞いをなくした、と片倉の屋敷に吹き付けていった。
死んだ家臣らの家族に届くのは無味乾燥な事後連絡と、右筆による定型の文章だという。綱元にすべて任せきりで、過不足はないが寂しい、とも。
それを思って目をつぶれば、暗い水底、重々しい青の中に石のように蹲る竜が見えて小十郎は暗澹たる気持ちになった。

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