蛟眠る 第十五話
 其の弐

板張りの天井、その木目が眼前に迫り、小十郎は盛大に息を吐き出し、そして吐いたよりも多く吸い込んだ。肺に空気が入り、小十郎はむせた。
咳こんで身を丸め、もがくと身の下に敷いてある布団が目に入った。ぐるりと世界が回る。体がきしみ、思わずその布団に手をついて握り込み、肺が飲みこめなかった空気を咳こむように吐き出す。
「小十郎さま!」
丸まり縮むその背に手が添えられて、やさしく擦られる。名を呼ばれその顔を見、小十郎はその名をついに得た。
「蔦――」
まごうことなき、彼の妻。
疲れのにじんだ顔、いつもは美しいはずの黒髪はくすんでいる。だがそれでも彼に笑いかける。
「お目覚めになってようございました、無理なさらないでくださいませ」
小十郎は水中と同じくもがいた。だが今度は長大な体はなく、手は手、足は足として機能し覚えのある胴の感覚はやがて彼に人としての自覚を取り戻させた。……傷の痛みも。
「覚えておられませんか、徳川さまが傷の開いた小十郎さまを運んでくださったのですよ。いまはうなされていて……」
蔦が言い終わらないうちに小十郎はしっかりと起き上がり、彼女を抱き寄せた。
腕の中で蔦が慄いた。だが小十郎はがっちりとその細い体を掴んで、肩に顔を押し付けた。柔らかい髪が額に触れ、鼻孔に女の放つ生の匂いが満ちる。傷の痛みと彼女のすべてが先ほどまで彼が見ていたものが、小十郎が身を置いていたのが夢だったと知らせてくる。
ぱたぱたと暴れる蔦の全ては生だ。死に満ちた悪夢が遠ざかり、ぼやけていく。
「小十郎さま、くるし」
ぽてぽてと胸を叩かれて、小十郎は蔦とのあいだにわずかな空間を作った。だが腕の中からは逃さない。その「苦しい」という表現を夢の中で蔦から聞いたのだ。まだなにか恐ろしくて離すことができない。
「小十郎さま? おぼえておられないのですか?」
まっすぐ見つめてくる瞳にも生気があり、頬はわずかに赤みがあり、唇は瑞々しい。小十郎は思わずその頬を撫で、唇の形を親指でなぞって確かめる。
先ほどまで、砂埃に汚れた髪、青ざめた顔、雪よりも真っ白で紙よりも乾いた肌の蔦を抱いていた気がするが……今目の前にある妻はいつもの蔦だ。死に際「苦しい」といった蔦とは全く異なる。あれは何だったのかと考える間に女の体温が冷たい夢を忘れさせていく。
その蔦がくいと肩越しに振り返った。その視線の先には、女中頭。いつも辛口な彼女があからさまにほっとした顔をしていた。
「皆に知らせなさい」
女主人然とした口調で言うと、女中頭は慇懃に頭を下げて部屋を出ていった。
引かれた戸から零れた光が目を指し、小十郎は一瞬目を眇めた。光が頭蓋の中に染みて霧が晴れていくように感じる。
その時小十郎の足元でもぞもぞと動くモノがあった。伏せていたそれは起き上ると同時に、
「ちちうえ!」
と叫んで飛びついて来た。――左衛門である。
小十郎は自らの腕のなかに息子をも迎え入れ、その頭を何度も撫でた。息子は父の目覚めを待つ間に眠ってしまったらしい。眠って体温が上がったものか、髪に手を差し入れれば子どもの肌が持つ湿っぽさが小十郎をますます安堵させた。
「小十郎さま、あまり動かれては……また傷が開きます」
蔦が腕の中で気づかわしそうに言う。
「蔦、左衛門」
だが小十郎はそれには答えず、それぞれの名を呼んでぐっとふたりを抱き寄せた。初めての事態に息子は歓声をあげて父を抱き返し、妻もまた驚きながら小十郎の背に片腕を回しつつ、もう一方の腕で息子が無闇に小十郎を締めつけないように牽制していた。
「……小十郎さま、本当に、如何なさいました?」
肩のあたりでもごもごと蔦が問うように言う。
――恐ろしい夢を見たのだ、という言葉は男として、父としての矜持が邪魔をして言えなかった。
しかし、男同士の勘だろうか、左衛門が言った。
「おばけ、ないないよ!」
蔦とともにその言葉に驚けば、息子にもの問うよりも早く廊下からバタバタと音が伝わってきた。そちらを目をやればほぼ同時に乱暴に戸が左右に開いた。
「殿!!!」
幾人もの男が同じ言葉を異口同音に――大音声で――発した。
本沢、小島を筆頭に小十郎の縁者から片平や新田など年若い者たちも部屋の入口に詰めかけている。不思議なのは、蔦の親類では小十郎の下で働く弟の信定はともかく、なぜか小十郎ではなく余所に仕えている筈の蔦の姉の夫の斎藤善員までそこにいることだ。恐らくは親類として様子を見に来てくれたのだろう。小十郎は同じ婿同士を見つけて舅の重定は何と思っていることだろうとふと思った。
そしてその最前には佐藤の兄弟。
……しかし、その数が足りない。そこにいるのは二人だけなのだ。彼らは常に三人だというのに。
その理由を問おうとしたが、うまく声にならない。
その間に、一番下の秀直がその場にへたりこんだ。
「よかったぁ……これであとは、兄貴だけだ」
その隣でため息をついたのは、秀直のすぐ上の兄標郷だ。
――定郷は。
いないのは、佐藤兄弟の長たる定郷だった。気の置けない、時に慇懃なのか無礼なのかわからない言動をする頼れる部下。
その不在をもう一度問おうと小十郎が唾を呑みこんだときだった。
開けた戸の横合いからすっと静かに棒状の何かが倒れてきて、しゃがみ込んだ秀直の頭をコーンと打った。
「いって!」
秀直が声をあげ一同そちらを見ると、今しがた秀直の頭で跳ねたそれが廊下へカランと音を立てて倒れるところだった。
小十郎は息を呑む。
それはここ数年目にしたことがない――蔦の弓、だった。

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2014年6月14日初出
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