蛟眠る 第十五話
 其の壱

空気と水が混ざり生じた気泡に体を覆われ、皮膚の感覚が消失する。それでも体の中から反射的に手足を動かせば、水を掻くことができた。
やがて気泡は引いていき、なめらかな水の感触だけが残る。
目を開ければ、眼前には透明な青の世界。他には何もない。
――息ができる。
ごぼ、と吐いた気泡は思いのほか大きく驚いたが、それ以上の驚きがある。……苦しくないのだ。息をするように水を吸い込んでも、喉の奥で空気と水が分離して、正しく肺に届く。
――なんだ、これは。
小十郎は思わず、手を見やった。だが現れたのは、見慣れたいつもの手ではない。
三本の鋭く大きな爪、鱗におおわれた甲。
小十郎は驚いてぐいと身を捻った。するとどうだろう。いつもより足の感覚が遠い。
ぐるりと体を見回せば、全身が手と同じく鱗におおわれていた。だが魚でもなく蛇でもなく、彼は手足をもっていた。それぞれに三本の爪をそなえた手足を。そして、足の向こうには、長い尾。尾の周りは鬣から続く毛が縁取っている。
――鬣? そうだ、鬣だ。
いつも撫でつけている黒髪は首から背へ伸びる鬣となっている。鼻は伸び口は割け、耳はもっと上へ移動し――耳の隣には、角がある。幾又にも分かれた角だ。
竜だ。
小十郎は竜の体をまとっていた。
ぎょっとして本能的にぐるりと水中で体をめぐらせれば、螺旋を描くかのように我が身がしなる。尾が最後に従ってくるりと回り、小十郎は目を見張った。
――その目は、人とは違い八方を見ることができた。
そして、そのうちの一つに焦点が合う――足下、水底。そこに覚えがあるが禍々しい気配を感じ、目が自然と動いたのだ。
そこには、とぐろを巻く竜がいた。頭を内側にし、ゴボと毒を含んだ気泡を吐いている。
体色は、青。そして右目は堅く閉じられている。開いた左の眼は爛爛と、しかし禍々しく光る。
――……政宗様。
小十郎が竜の名前を言い当てれば、答えるがごとく水底の竜が吼えた。
怒りに満ちた声は水を伝いビリビリと小十郎の身を打つ――それにわずか気押されて小十郎は鉤爪の手足を水中いっぱいに伸ばして踏ん張った。
――政宗様。
反射的にぐいとそちらへ頭を向け、水を掻く。だがしばらく行ったところで、小十郎は進路を阻まれてしまった。
……水に層があるのだ。
水底よりも小十郎のいる辺りは流れが早い。それが小十郎の進路に見えない壁となって立ちはだかったのだ。
――底ほど遅く、水面に近ければ早い。
水の流れの不思議な定理を思い出して、それに乗りながらも小十郎はそこへとどまった。
手足を使い早い流れを振り払い、水底へ下りる。それは不可能ではない。
否、小十郎には容易いことに思われた。……自分もつい先ごろまでその水底にいたのだ。水を蹴り、浮上した――その感覚が体のあちこちに残っている。だからこそ、下ることは可能だ。辿ればいいのだ、その道を。
水の流れを振り切って、毒吐く独眼の竜の元へ。
そして、辿り着き――次は?
小十郎はじっと水底の竜を見つめる。竜の鱗は水よりも濃い蒼をしている。水にさらに空の色を落としこみ、宵の色を混ぜ込んだような色。鱗一枚一枚の輝きが異なるための錯覚だろうか。ともかくそれが、とぐろを巻いている。
――その傍らに下りて、俺は何をしようというのか……何ができる?
竜は神とも言われるが、獣の長と述べる古い物語もある。神でなく、古くから語られるように獣の長だすれば、獣は自らの足で立たなければならない。人とてそうだ。人の子とてやがて自らで立ち上がって歩くのだ。
そう、数年前、小十郎の子がそうしたように。
――俺の子?
小十郎は浮かんだその考えに思わず頭を振った。たゆたう長い髯が揺れた。
長い髯の存在と感覚は今や爪や鬣、尾と同じく小十郎になじみ深いものだ。だが、「俺の子」というのは唐突に胸にあらわれ、彼を驚かせた。
しかし、脳裏にころころとした男児の顔が浮かんで小十郎ははっとする。
――そうだ、アイツは……突然這いずっていたのが、……の膝にすがって。
そう、たまたま屋敷にいたあの日、居間でそれは起こったのだ。小十郎と、小さいのと、小さいのの一番の庇護者。……女だ。女の膝によじ登る小さいの。小さいの――子どもに微笑み、やがて自分の腕に手をかけて立ちあがったその子に、“彼女”が笑った。大輪の花のように。
「小十郎さま、左衛門が立ちましたよ!」
子をそっと支えて彼女は“小十郎”を見る。
脳裏に蘇ったその光景に小十郎は驚いた。それはまぎれもなく、かつて彼が目にした光景なのだ。
――左衛門。そうだ、俺の子。
子の名前が蘇る。なぜ忘れていられたのか。かつて殺そうとして、小十郎の女がその子を抱えて死のうとしたのに。
……では女の名は。
小十郎はもがいた。政宗の次に、彼の護るべきものがふたつ。そのひとつの名が、何故か出て来ない。長い体が八の字を描きながら水をごぼりと掻き分ける。それは苦悶のあがきだった。
顔は浮かぶのに、名の記憶だけが白くぽっかりと空いていて音も文字も彼の中に見つからない。奪われたのか、なくしたのか――それとも大事にしすぎたのかその名が下りてこない。
まるでそうすれば思いだせるというように小十郎目を瞑った。
そして次に開けた時には、眼前に水面からの光が柱となって下りてきていた。
唐突に表れたその光に驚くよりも先に苦悶を押しのけて、小十郎の体の奥からひとつの強い想いが湧いて来た。
――この光を伝って、水面に出るのだ。水面を蹴って、雲に乗って、遥かなる梵天へ。
それは本能のように、欲求として湧きあがってきて、逆らい難い。
小十郎は思わず水底を見やった。この柱を登るのならば、独眼の竜を置いて行かなければならないのだ。本能的に彼はそれを知っていた。
――……ご自分の手で水底に爪を立て、ご自分の足で水を蹴らなければ。
そうしなければ、竜は天を駆けられない。
例えばあの竜を背に負って光の柱を登ることは、意味のないことなのだ。
――……先に失礼いたしまする。
小十郎はたとえ声に出しても届かないだろう言葉を竜へ向けてから、ぐいと体をくねらせた。光の柱に入る直前、ふと振り返ればとぐろを巻く竜は小さくなって遠ざかっていく。……その少し離れたところに、翼を折りたたんだ虎が蹲っているのに小十郎は気付いた。離れたからこそ見えた景色だ。
――あれもまた、己の力で水底を蹴らなければ。そうでなければ、それまでだったということ。
小十郎はそう思って、向き直り、ぐいと四肢で水を蹴って水面を目指した。後ろ髪ひかれないわけではない。
「……さま」
光の柱の中、水面を目指せば声が降ってきた。ああ、この声だ、と小十郎は思う。
この声が光なのだ、と。
奪われても、なくしてもいなかった。大事にし過ぎたわけでもない。先ほどまでいた水底に落ちる以前――水底で悪夢を見る以前、傷ついた彼は彼女のことを顧みなかった。そのために彼は彼女の名を忘れたのだ。それは彼への罰だったのかもしれない。だが彼は取り戻した。
「小十郎さま」
左衛門の母、白萩の寺の僧が言う悪夢の中で喪ったと思った比翼連理。小十郎の“得る気のなかった幸福”の形をしたひと。
その時、水の流れが変わった。水面により近づいて、流れが早くなったのだ。
小十郎は巨体を流されそうになり、思わず水面へ向かって手を伸ばした。しかし伸ばした手に鉤爪はなく、それはいつもの無骨な人の手であった。
水面のむこう、雲の上から白いものが伸びてきた。それは女人の細い手であった。
天女の色をしたそれは日に焼けた小十郎の手に触れ、そしてしっかりとその手首を掴んだ。小十郎も細く白いその手首を握り返す。滑べらかな肌は小十郎の持ち得ぬもの、細い手首は彼が包んで守るべきものだった。
だが守るべきと思ったものは予想よりも力強く、頼りがいのある力でぐいと小十郎を引きよせ、そして雲上へと彼を導いた――

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