蛟眠る 第十四話
 其の四

「何を仰る……?」
秀雄はまた、笑う。否定しつつ。小次郎そのものの顔で。
「僕は俗世から離れてしまったから、川の間に立てる。でも、お前は俗世に有る。お前が川を、とても大きな河を渡るのは、まだずいぶん先だよ。だから今はここを渡ってはいけないんだ。お前はただ残滓を払うために来たんだ――それは兄上のためでもある」
「政宗様の?」
「うん」
秀雄は頷き、政宗にそっくりな、しかしずっとやさしい顔で言う。
秀雄は自分を小次郎でないというのに、政宗を兄と呼ぶ。小十郎は困惑していた。
その困惑を知らないのか、あえて無視するのか、秀雄は言葉を続けた。
「小十郎、お前は自分で水底を蹴れるんだ。毘沙門天の化身と、東の日から助力を得たから。水底を蹴って、水から出て、雲を踏める。でも今、兄上は違う。憎悪の毒にとらわれて、水底で暴れてるんだ」
わかる? と、秀雄が首をかしげた。そのどこか幼げな仕草はまさしく、竺丸――小次郎を彷彿とさせるものであり、そのものであった。
しかし小十郎には懐かしさよりも、別な感覚が蘇る。その感覚が呼び起こしたのは、ひとつの名前。
「……石田三成」
「そう」
じんわりと、小十郎の脳内に小田原の景色が蘇る。
薄紫の一閃によって、地へと落とされた竜――政宗だ。
「お前も兄上も、今はまだ眠っている――けど、小十郎はもう蛟じゃない。ところが兄上は、何度も何度も夢の中で屈辱を繰り返して、竜になるところだったのに蛟に逆戻りしようとしてるんだ――父殺しの鬼子、弟殺しっていう評価まで甘んじて受け入れたのに、たかが凶王からの侮辱をやり過ごせないなんて、情けなくないかい?」
「……」
「僕は、情けないよ。せっかく、奥州を守るために死んだのに、兄上も国を守るために僕を殺したのに、兄上自身が奥州を追いこむなんて、まったく予想してなかったんだから」
「……政宗様は」
ぼんやりと思いだしてきた。辛くも小田原から国元に帰りついた後――徳川の軍勢が攻めよせた。それを撃退して――大地に墓標のごとく突き刺さった刀を抜いたところまでは覚えている。
「まだお目覚め出ないのか」
その後、どうなったのか――記憶がブッツリと途切れて、そして巻き戻っている。ありえない要素を盛り込みながら。
「目覚めてるよ――体はね。目が曇ったままなんだ」
「では、戻らねば」
「うん。やっぱり小十郎は話が早いや」
小十郎が言うと、秀雄は頷いた。
「戻らねば……。政宗様の側にあらねば」
「うん」
「ただ、わからない……ここはどこで、なんなのか? あなたは――どうしてここにいらっしゃる? そして、俺は――“彼女”を喪ったのか?」
「ここはね、悪夢の残滓だよ、小十郎。そして、悪夢の残滓が時を逆巻いて、お前から連理の枝、比翼の翼を奪ってみせたんだ。でもそれは、ただの夢だから。起らなかったけどありえた可能性を、お前に見せただけなんだ。お前のために、兄上のために。一歩間違えば、喪失が訪れたことを思い知らせるために。……いいや、実際にいくつも喪われた。それをふたたび刻み込むために、お前に見せたんだ。兄上には、まだ見えないから。だけど、お前の悪夢はお前が戻れば、すべて消える」
「要領を得ませんが……」
秀雄は困ったように笑う。よく、笑う。
「ごめんね、僕まだ、小坊主だからうまく説明できないんだ。でも、これだけは覚えていて。竜は水底で毒を吐く蛟になりかけている。お前は大丈夫だ。ここまでは悪夢、ここはただの境目。お前は連理の枝も比翼の翼も喪っていない――ここまではきっと覚えていて。
それと、これはきっと忘れてしまうけれど、お前が彼女を喪うことはないよ。彼女が川を渡るのは、お前が渡って干支が一回りする前後だから」
「……ではこれは悪夢と現実の境か」
「そう」
「……なぜそこに、あなたがいらっしゃる? しかも、あなたは最後に見たお姿より成長しておられる……小次郎様」
「僕は、俗世を離れたから。……それに、僕は秀雄だ。……幼名は、鶴若」
「いや、あなたは――」
幼名は竺丸、長じては小次郎政道――政宗様の弟君。
そう言うよりも先に、秀雄が言った。
「兄を頼む。戻れ、小十郎」
その言葉と同時に風が吹いて、小十郎は思わず目をつぶった――次に目を開けると、先ほどのこの寺の住持が太鼓橋の上にいた。小十郎は驚いた。
「戻れ、小十郎。お前は悪夢を振り払った。そして雲になれ。竜が踏む雲になるのだ」
有髪の小坊主はどこにもいない――いるのは、政宗と同じく眼力のある、しかし歳を重ねた高僧だ。堂々と小十郎の驚愕の視線を受け止めている。
――老いてますます似るのか。
小十郎がそう思った時、ざっと水音がした。みれば、太鼓橋の下の川がみるみるうちに水かさを増している。逃げなければ。しかし、足が動かない。
「大丈夫だ、お前は水底を蹴れる」
チチ、とまた鳴き声がして、僧の左右の肩にまたも雀がおりてきた。秀雄はそれぞれに笑いかける。そのうち一方が、チチ、と話しかけるように鳴いた。
「ああ――そうですね……うん。……竜だけじゃない。お前の連理の枝、比翼の翼のもとへお戻り」
秀雄が手を広げて、なにかを小十郎の側へ寄せる仕草をした。
するとそれに導かれたように、ザッとあふれ出る水の量が増した。膝まで飲まれ、水の勢いに小十郎は倒されそうになる。だが。
「小次郎様」
小十郎はぐっと手を伸ばした。手を伸ばした先で、歳を重ねた高僧の姿が揺らいで、また若い姿になる――紫の衣はそのままに、有髪の、政宗によく似た少年に。
秀雄、ではない、あれは小次郎だ――政宗が輝宗の次に得た家族。
伸ばす手は、届かない。秀雄は笑う。
「心配しなくていい――兄上は生まれた家族よりもっと良い家族を持つよ。あれで情深いのはお前も知ってるでしょう? ……私は秀雄。伊達小次郎政道は、もうどこにもいないよ」
踏ん張る足が流され始める。それでも小十郎は手を伸ばす。お連れしなければ、と思う。政宗のためだ。父を殺し母に去られ――せめて弟君だけでも。
そのとき、伸ばす手と逆の手が、不意にぐいと引かれた。
小十郎の鍛えた体が軽々と均衡を崩し――背中から水へ落ちてゆく。乱暴に引かれた手はしかし、武道の心得が感じられた。油断した相手をどう地へ一敗つけるかを知っている引き方だった。
倒れ込む小十郎のその視界に、その心得ある者の姿が映った。
「定郷――」
何故ここに、という問いを込めて呼べば、一の部下がニッと笑った。そして、タノミマシタヨ、と口を動かした。声は聞こえない。そしてひどくゆっくり景色が動いていく。
逆転しかける世界の中で、定郷は小十郎へ背を向け秀雄のいる橋のほうへまっすぐ進んでいく。そして、秀雄の前で深々と頭を下げた後――その横を抜けてそのまま霧のむこうへと歩んでいく。最敬礼を目で受けた秀雄の肩から雀たちが飛びたち、定郷の後を追う――小十郎に見えた水の上の景色はそこまでだった。
サブリと水に身が落ちて、気泡で視界がおおわれる。
透明な濁りに襲われて小十郎は目を閉じた。

 目次 Home 
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -