蛟眠る 第十四話
 其の参

声は秀雄のものだった。こちらに背中を向けたままの小坊主の言葉だ。
「――……?」
橋のちょうど真ん中で立ち止った小坊主の後姿に小十郎は眉を寄せる。
――なぜ、俺の名前を知っている?
ここに辿り着いてから今まで、そういえば名乗った記憶がない。
「なぜ……」
思ったことを問いかけると、小坊主が向こうを向いたまま肩をすくめた。
「ひどいなぁ、小十郎。僕を忘れてしまったの?」
ふとその南蛮じみた仕草をどこかで見た気がして、小十郎は目を見張る。そして、小坊主が振り返った。
「よく見て。僕を見たことはない?」
苦笑する柔らかな視線、きりりとした口もと。鼻もすっと伸びて、美形といっても過言ではない。
小十郎はその顔を知っていた。それは――小十郎がもっともこの世で尊重し、守り、従う人物の顔だった。しかし、よく見れば知ったその顔よりも小坊主は目が優しい。重なった面影は同一ではなく、とても「似ているだけ」なのだ。小坊主の目には重なった顔の持ち主がもつ、時に「過剰」とも称される自信を秘めたモノはなく、その色はどこまでも慈悲深い色をしている。
その優しい色に浮かんだのは、小坊主と面差しが重なった人物とは異なる名。
――輝宗様。
そしてもう一つ、別の名。
――お東様……大奥様。
小十郎にその存在を思い起こさせたのは、小坊主のきりりとした口もとだった。
しかし異なりつつも、その二人は小坊主と面差しが重なった顔の人物と無関係ではない。
「……あれ、実はいまいち似てないのかなぁ? じゃあ、仕方ないなぁ、一度だけだよ」
小坊主の顔に輝宗と義姫の面影――もはや国元に別々の意味でいない二人――を見つけて驚愕して答えられないでいる小十郎に、小坊主は彼が示唆したことをわからないと判断したか。秀雄は苦笑して、つるつるの頭にまるで髪に手櫛を入れるかのように指を添わせた。
坊主頭を手が滑り終えた一瞬後、やや茶色がかった髪がまたたく間に現れ、長い前髪が秀雄自身の目にかかった。小十郎は目を見開いた。秀雄は生えそろった髪にゆるゆると首を振り、今度こそは本当に髪に手櫛を差し入れて前髪を横合いへと流した。
髪を得た秀雄は――そう、小十郎の主政宗にそっくりだった。
輝宗から口元を、義姫から目を貰った政宗に。
政宗のすっと通った鼻は両親の美点をよく混ぜこんでいる――それは、政宗に見られる特徴で、今目の前では同じものを秀雄がもっている。
秀雄は目が輝宗、口もとは義姫、鼻筋は政宗なのだ。
だがそれらはひとつの、これまた政宗によく似た輪郭の中で綺麗に融合し、美男と呼ぶにふさわしい造形を作り上げていた。
秀雄と名乗った小坊主は政宗に似ているのだ――しかし政宗と最も違うのは、両眼が揃っており、その二つの瞳がしっかりと小十郎を見据えていることだ。
……小十郎は数年前まで、この顔の持ち主と、いや、この顔だがもっと幼かった人物とよく会っていた。城の、主たちのより私的な場所で。
「……小次郎様」
小十郎の口からまろびでた言葉に秀雄がわらった。
「シュウユウ、だよ、小十郎」
笑いつつ、言葉では秀雄は肯定も否定もしなかった。そして秀雄は体の前で手を振った。すると、秀雄は有髪のまま白布に腰衣姿から、先ほどの出会ったこの寺の住持と同じ紫の褊衫に袈裟姿の僧となった。
あまりのことに、小十郎は混乱した。
――これは、なんだ?
秀雄の坊主頭が一瞬で有髪となり、衣服が変貌を遂げたことだけではない。
小次郎は死んだはずなのだ。
秀雄が苦笑する。
「それでいいよ、小十郎。実際、そのひとはとうの昔に死んでるんだから。今は悪い夢を見ているんだ、お前は」
まるで全てを見透かしたかのように、秀雄は両眼を小十郎に据えていう。
……政宗によく似た顔立ちは、だが優しい瞳のそれは間違いなく伊達家次男の小次郎だ。少し背が伸び声が低くなってはいるが、かつて竺丸と呼ばれた優しい少年に違いなかった。兵法の書より、僧の随筆を選んだ御曹司。
小十郎は思わず腰の得物に手をかける。
「……松永の幻覚か? 魔王の眷族か?」
すると、秀雄と名乗る小次郎はますます苦笑した。
「似たようなものかもしれないけど、違うよ。悪い夢を見ているだけだよ、小十郎。ぼくはそのなかでは、良いとは言わないけれどマシなほう」
秀雄は警戒する小十郎に優しく、そして根気そう強くいった。それでも得物から手を離さずにいると、そこへ、チチ、と鳴き呼ばわりながら雀が二羽三度現れた。二羽は小十郎のまわりをくるくると飛び回る――そのあまりの近さに腰の得物から手を離すと、二羽は秀雄の元へ飛んだ。そして一羽は肩へ、一羽有髪の頭にとまる。
秀雄は楽しそうに笑う。すると雀はそれぞれその顔を見やってから、納得したようにそれぞれ視線を交わし合い、さっと再び飛び立った。秀雄の背中側、庫裡の方へ――しかし、小十郎が目を追えば、そこには先ほどまで見えていたはずの庫裡はなく、白い霧が広がるだけになっていた。
小十郎はぎょっとして辺りを見回した。
振り返れば白萩の道も霧の中へ掻き消えている。
目の前の川も太鼓橋の周りが姿を見せているだけで、上流も下流も霧の中へと掻き消えていた。
青い空すら消えている。
白い空間に、あるのは短い水の流れと、太鼓橋。そして、太鼓橋の上に、「シュウユウ」と名乗る小次郎だけだ。
「馬鹿な、ここは」
どこだ、という言葉より早く、秀雄が言う。
「夢だよ。……お前は本当は蔦を喪っていない。兄上は確かに今苦しんでおられるけど。ここはね、毘沙門天の化身が凍らせて、東の照が溶かした悪夢の残滓だよ」
「何を仰りたいのか、分からない」
しかし、と小十郎は言う。
「小次郎様、何をしておられる? こんなところで僧のまねごとを? 先ほどの住持は虎哉和尚ではありませんでしたが……」
伊達家の子息が出入りするのは虎哉和尚の資福寺のはずだ――小十郎は混乱したまま問う。
「いや……なにより、なぜ? あなた様はあの日――」
柱の表面が削られ、畳が全て入れ替わり、調度品すら真新しくなった、あの部屋――そうなった理由は小十郎がその部屋を訪れた前日、小次郎がそこで政宗の手にかかり、兄と同じ赤い血を部屋中にまき散らして死んだからではなかったか。傅役もろとも。
「そうだよ、だから、僕はそのヒトじゃない。秀雄だ。大悲願寺の秀雄、明王山宝仙寺の住持だ」

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