蛟眠る 第十四話
 其の壱

物言わぬ蔦を抱いて馬を走らせる――夕刻が近づいてきて空気が冷えて来たのか、靄のようなものが大地を這うように生じては広がり始めていた。
――おかしい。
馬を走らせながら小十郎は困惑していた。
――どこかで道を間違えたのか?
先ほど成実の率いる部隊と落ち合った場所へと向かっている筈が、いつまでたっても辿りつかないのだ。
林と人の往来で踏み固められた道は先ほど来た道と同じものに見える。だが、何かが違うのだ。
しかし。
――辻があったわけじゃねぇ。
ほぼ一本道の筈だ。外れるとしても馬の通れぬ獣道があるだけだったはず。
だが、いくら馬を進めても違和感だけが続き、増えてくるはずの味方の気配もない。
そういえば、成実が出したはずの増援はどうなった? 蔦と佐藤兄弟とかちあったあの場所にすら思いかえせば一人もいなかったことに気付いて、小十郎ははっとした。
手綱を引いて馬の速度を緩める。
「標郷、秀直、ここがどこか、分かるか――」
そう言いながら馬を止め、後ろにいるはずの二人に声をかけ、振り返る。
だがそこには靄を濃くした霧が広がるだけで、人影すらなかった。
道すら白い向こうへかき消えている。
小十郎は思わずゾッとして、胸元に眠る蔦を強く抱きしめた。蔦の頭が柔らかく小十郎の胸に更に寄りかかった。
――はぐれたのか。
「標郷、秀直」
もう一度呼ばわり、応えを待つ。だが声は響いた後、霧に飲みこまれて消えていっただけだった。
そのかわりに、チュン、という鳴き声が聞こえて小十郎は振り仰いだ。
雲よりも低い位置にある霧によって白い空に茶色の小さな影がふたつ。チュン、チュン、と二羽の雀が互いに鳴き呼ばわりながら彼の頭上を旋回していた。
やがて雀は驚いたことに彼の元へとまっすぐに、躊躇することなく降りてきた。
一羽は馬の頭に止まって小十郎をじっと見つめ、もう一羽は眠る蔦の力ない手の上に降りて彼女と小十郎を見比べるような仕草をした。
二羽は人に怯える様子がなかった。米食う鳥は人に嫌われるがゆえに人に近づかないというのに。それから二羽はまた不思議なことに互いに顔を見合わせると、それぞれの足場を蹴ってまた中空へパッと舞いあがった。
霧の中二羽は円を描きながら、すいと同じ方へ飛んでいく。
小十郎は無意識に馬に命じて、それをゆっくりと追った。
やがて二羽は寝床でもあるのだろうか、霧の中にゆっくりと現れた鮮やかでつややかな緑の連なり――竹の林に消えていった。小十郎は思わず手綱を引いたが、馬はかまわず進んでいく。
小十郎はそれで思考を放棄した。疲れ果てていたせいもあるかもしれない。馬にすべてを任せて竹林を行く。
馬は器用に狭い竹林を抜けていく。鬱蒼としているようで、規律正しい竹の林――雀は何処に行ったのか。瑞々しい緑が辺りを満たす白によく映える、不気味で美しい景色だ。空気は清浄で、冷えているように感じられる。
辺りの景色と同じく、頭にも靄がかかっているようだ。だが蔦だけはしっかりと抱き抱える。蔦の身はまだ柔らかく、ぬくもりさえ失われていないようでそれだけが現実のようにも小十郎は思えた。
やがて目の前に交互にあらわれては消えていた竹の林が不意に消えた。
霧は再び地を這う靄へと変わっていた。
――霧に巻かれて、どこへ来たのか。
馬がひどくゆっくりと足を止め、ピクリと耳を動かした。大地へ目をやれば、まるでそこは町の中の大路のような顔をしている。蔦の生家のある、国元の大町の通りのような、人の往来が多くあり、人の手が入った「路」が足下にあるのだ。
小十郎が戸惑っていると、チュン、とまた頭上で鳴き声がした。また雀が二羽彼の頭上を旋回して導くように飛んでいく。小十郎は今度は自分の意志でもって二羽を追った。馬は素直に主に従う。
チュンチュン、と鳴いて二羽の雀はしばらくすると、ふいに靄の中からのっそりと現れた白い立派な土壁の向こうへ消えてしまった。
白い土壁はその頂点に瓦屋根をのせ、軒には紋様すら彫り込まれている。その立派な塀が、少し先まで続いている。ここはどこかの町はずれだろうか。白壁の向こうは屋敷かそれとも。
入口はどこか――小十郎がそう無意識に考えていると、ザッザッとなにかが地面を掻く音がした。しばらく進むと、霧の中、こちらに背を向けて一心不乱に箒を動かしている人影があった。つるつるの形の良い頭に白布に黒の腰衣――僧侶が雑用をこなす時の格好をした者が通りに散らばった笹の葉を集め、辺りを清めているのだ。その背は意外と小さく、まだ十代前半か半ばか、といったところであった。では僧侶ではなく小坊主といったところか。
小十郎が馬を止めると、その気配に気づいたのだろうか、小坊主が振り返った。――振り返ったその顔がふと誰かに似ていると感じたが、それを誰と認識するよりも前に
「あっ」
と小坊主が声をあげて箒を掴んだまま駆け寄ってきた。馬が鼻息を荒くする。
その馬の様子に手前と言うよりは少し向こうで足を止め、小坊主はそうっとという感じで小十郎を見上げてきた。
「こんなところに、珍しい。どうされました? ……そちらは、奥さまでいらっしゃいますか?」
小十郎は馬上でしばし沈黙した。物おじした様子のない小坊主に戸惑いを覚えたのだ。その間に小坊主がもっと近くへ寄ってきた。それからつま先立ちになって蔦を覗き込もうとする。
無礼な、と言いかけて小十郎は躊躇する。そんな仕草をするのに小坊主は品の良さそうな顔をしているのだ。しかも、やはりなにか見覚えがあるような。
ひとしきり背を伸ばして諦めたのか、小坊主は今度はまっすぐに小十郎を見上げてきた。
「お疲れなのですか? おやすみどころをご用意してもいいか、和尚様に聞いてまいりますね」
小坊主はそう言うと、小十郎の返答を待たずにくるりと踵を返し、箒を重そうな瓦屋根を持つ山門に立てかけ敷居をひょいと越え境内に入ってしまった。
小十郎の口の中に溜まった拒絶の言葉は深い息遣いに代わり吐き出される。

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