蛟眠る 第十三話
 其の五

蔦を鞍の前に横座りさせ、馬を駆る。
前方には標郷と秀直、後方には定郷と、小十郎を挟むようにして進む。
不思議なことに蔦の体はまだ柔らかい。熱は失われているものの、硬直はしないのだ。……父母の死をも見た小十郎には不可思議なことと思われたが、国元に届けるまでこのまま持てば、とも思う。
顔色が失われていることを除けば、娘は小十郎の胸に寄りかかり眠っているようにも見える。
しばらくして馬が駆けるその先に、一筋水の流れが現れた。人でも軽く踏み切れば飛び越えられるような小川だった。まず秀直の馬が跳び、標郷が続く。そして小十郎も小川を軽々と越えたところでふと気付いた。
――こんな川、あったか?
思わず手綱を引いて馬を止める。
先ほど、国境まで駆けた道。こんな小川はなかった。
違う道を通ったのか? ……いや。
小十郎は馬体ごと振り返る。腕の中で蔦の黒髪が揺れた。
振り返れば、小川の向こうで定郷が駒を止めていた。
「兄貴!」
「何してるんです!」
先行していた二人も振り返ったか、小十郎の後で声が上がる。
「定郷」
言って、小十郎は馬を元来た方に進める。すると、定郷が小川へ目を落としながら言った。
「戻るのはそこまでです」
「なに?」
小十郎の馬が首をのばせば、定郷の馬の鼻先にその鼻が届きそうなくらい幅の小さな川だ。よくみれば小川というより気まぐれにできた水の流れと言った方がいいかもしれない。
定郷は小十郎へ頷いた後、鐙で腹を蹴ったり手綱を操って馬を二、三度進めようとしてみせた。しかし馬は動かなかった。定郷は馬の頭を見つめ、労うようにその首を優しく叩いた。まるで馬が動かないことを知っていて無理強いしたことを謝るかのような手つきだった。
――小十郎にはなぜか馬が青ざめて見えた。
「……殿が戻っていいのはそこまでです」
言った後、定郷が肩越しに振り返った。
――そちらからまた、何か不穏な気配。先ほどと同じ、狩りの気配。だがもっと強烈で、しかしそれにしては、遠くも感じる。
「兄貴、振り切ろう! できる!」
「兄上、跳んでください!」
弟二人が小十郎の後方で叫ぶ。だが定郷は笑うだけだった。
「標郷、秀直。殿をよくお支えしろ。片倉の危機にあっては前に立つこと、片倉の好機にあっても前に立つこと、陰に日なたに忠を捧げよ、いいな」
何を、と弟たちが声をそろえる。秀直が馬を進める。
「お前たちも戻ってはならない」
定郷は厳然と言う。末弟は兄の言葉に怯えたように馬を止めた。そして長兄は再び、主に目を移す。
「佐藤次郎右衛門、殿軍に残りまする」
「……」
小十郎は彼の肩越しに「気配」を見た。……なぜか視線をやった先の風景がぼんやりとしているように思えた。
「……殿、ひとつ伝言を頼まれてくれますか」
「……縁起でもねぇ。いいから、跳べ」
定郷は笑った。
「――国を出てくる時、帰ったら水切りのコツを教えると約束してしまった童がおりまする。どうか、約束を守れない無礼をお許しいただけますように、と」
「そんなこと、テメェで伝えるか約束を果たせ」
小十郎が憮然として言えば、定郷は小さな流れを見つめた。
「わたしはこちら側に来てしまいましたから。……童は殿に最も近しい男児です。お願い申しあげる」
定郷は馬上で頭を下げた。それから顔をあげ、小十郎の向こうに目を向ける。そこには弟が二人。妙に澄んだ目で彼らを見た後、ふと定郷は小十郎の腕の中に目を落とした。
視線の先には、蔦。
定郷は優しく目元を緩め――何かポツリ、と言ったようだった。
それに重なるように標郷と秀直が背後で何事か叫ぶ。だがそれも小十郎の耳にはなぜかよく聞こえなかった。
「馬をお進めください。お早く」
言うが早いか、定郷が手綱を引いて馬を返した。
――もはや何を言っても聞くまい。
定郷の気性は、今では手に取るように小十郎には分かる。
「――わかった、伝えよう。……その代わり、任せるぞ」
「ありがとうございます。殿軍、賜りました」
くるりと定郷の背中に槍が踊った。小十郎も馬を返す――定郷の馬とは逆方向に。そして、馬の腹を蹴る。立ち止まる標郷と秀直の横を抜けると、振り払うように兄弟が主に続いた。

――佐藤次郎右衛門定郷、片倉最初の露払いとして参る。

風の中に小十郎は定郷の口上を聞いた。

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