蛟眠る 第十三話
 其の参

――蔦は、火之番だった。だから、人の殺し方を知らなかった。だから、殺し損ねた相手が起き上り、槍を突き出してきても対応することができなかった。
秀直があっと声をあげた。小十郎はどうやって元いた場所から蔦に駆け寄ったのかを覚えていない。
火之番として彼女が日々屋敷や城で稽古するのはあくまでも「万一」攻められたときの「防御」の弓。その背に国主の妻たる愛姫や重臣の娘たちを庇いながら矢を放って敵を脅し、後退して退路を進むための術だ。蔦が知っているのはその闘い方。隙を作ってともかく逃げる――その戦いには自分が殺した相手が本当に息絶えたか確認する必要がなかった。その慎重さが必要なことも彼女は無自覚だった。
一瞬の出来事だった。男が起き上り、蔦が沈む。
地を蹴った小十郎は次に気付いた時には蔦を抱えてかがみ込んでいた。倒れ行く女を抱きとめたのだ――無意識に。
革の鎧の合わせ目を縫うようにした槍は体へと突き立っている。
蔦はその柄を掴んでいた――抜かれないようにしている、と気付いたのも一瞬。見上げれば、「大将首」を目にした男は蔦には目もくれず小十郎を睨めつけて無造作に槍を引き抜こうとしている。だがその男と目があったのも一瞬のことで、次の瞬間には視界の外から別な鉤槍が繰り出され、男の無防備な喉元に突き立った。
振り返れば、定郷がしゃがみ込んだ小十郎の頭上越し槍を突き出していた。
そこへ標郷が大音声とともに男へ体をぶつけた。体当たりの衝撃で槍を手放した男は後ろへと倒れながら空中を掻く――赤い飛沫をまき散らしながら。
どうと大地へ倒れ込んだ男がもがいていたのも少しのことで、兄たちに追いついた秀直が勢いのまま太刀を振りおろし、刃が地を噛んだ。野武士の胴から離れて首が跳び、その命はてんてんと黄泉への坂を転がっていった。
「蔦殿」
出来事はあっという間に過去になり、今の全ては小十郎の腕の中に集約される。
蔦はわき腹へ受けた槍を握りしめている。そして、こほ、とひとつ咳をするように息を吐き出した。
「運の悪い……」
蔦がそう言った。小十郎は蔦の手に自分の手を添えて槍を支える。
佐藤の三人に守るように取り囲まれるのがわかった。
「――槍を固定します。誰か、縛るものを」
小十郎は蔦に目を落としたまま命じた。秀直か標郷かが動いて、手拭いを割く音がした。
蔦はすっぽりと小十郎の腕の中に収まってしまっている。ひ、ひ、と音がするように息をしている。息をするたびに槍が沈み込み痛むのか、目を見開いてそちらばかりを見ている。
これを抜けば、蔦の小さな体から大地へ血が流れ落ち、命も零れてしまう。
蔦の体はまだ暖かい。小さいが暖かく、力がある。
よもや、こんな形でこのひとを抱くことになるとは。
胸で蔦の背を預かり、左手で彼女の体に突き立つ槍を支える。
手拭いを割き終わって屈んできたのは標郷だった。次兄の向こうで秀直は青い顔をしている。その顔はすでに何かを悟っているようだった。
小十郎は蔦の顔を覗き込んだ。虚ろな目が見上げてくる。今までで一番近い。女らしく長い睫毛は上を向いていて、瞼に従って上下する。
「槍を固定した後、柄を折ります。そうしたら、帰りましょう」
柄を折るのは体に負担をかけないためだ。移動のためでもある。
――帰さなければ。
蔦の蒼白な顔と姉を探す弟の顔が重なる。
ひゅう、ひゅう、と蔦の息遣いが直に小十郎の体へと伝わる。そして、蔦の体が戦慄いた。
激しく湿った咳。それとともに蔦は、かは、と何かを吐きだした。
それは真っ赤なものだった。小十郎の腕や体にかかったのは、槍で傷ついた臓物から喉を遡り、蔦の意思とは無関係に吐き出された血だった。
それを見て、槍を固定しようとしていた標郷が小十郎に小さく首を振った。その標郷に対して小十郎もまた首を振る。それは槍を固定しろ、という命令だった。
「……て」
蚊の鳴くような声がして、小十郎は部下から再び腕の中の女へと目を移した。先ほどと比べて、強い視線が待ち受けていた。
「抜いて、ください」
小十郎は息を呑む。
「抜いては――国元までもちませぬ」
零れた血は戻せない――血が失われれば命もなくなる。それが生きとし生けるものの摩訶不思議な定理だ。槍を抜けば血はとめどなくこぼれるだろう。だからそのまま運ぼうというのだ。
「――苦しい」
蔦がぐっと抜くために柄を持つ手に力を込めたのがわかった。小十郎は無意識に血で汚れた蔦の口元を拭ってやっていた。
「――くるしいの、片倉さま」
手の中で唇が動いてそう告げた。
痛い、ではなく、苦しい。
――痛みを通り越したのか。
「殿」
背中側から定郷の声が聞こえた。その声は小十郎の執心を諌めていた。
小十郎はギュッと目をつぶった。眉間にしわを寄せて、それをゆっくり解いて目を開ける――開いた目と再びぶつかった蔦の目は力を失いつつあった。
「……いたしましょう」
言うと、蔦は力なくほっとしたような顔をした。
そしてもはや柄に添えられるだけになった手に力を込めようとする。それを助けるように蔦の手ごと柄を握り――小十郎はじっと蔦の顔を見つめる。
「父と母に――」
蔦も一時、自らの身に突き立つ槍へ目をやっていたのを小十郎へ移し、言う。
「申し訳ありません、と伝えて……」
「……必ず」
「姉と弟には――父と母をお願いと……」
小十郎はこっくりとひとつうなづいてみせた。
それを見届けて、蔦は一瞬笑ったようだった。小十郎の大きな手が包む小さな手に渾身の力がこもる。小十郎はそれに抵抗しかけ――そして彼女をまねた。ただし、彼女の数倍の力で。
蔦が言葉にならない声をあげた。それは悲鳴ではなく、断末魔だった。その声に標郷が顔をそむけ、秀直が堅く目をつぶって俯いた。定郷がどうしたのかは小十郎は知らない。
体から異物が取り除かれる痛みが去ると、ぐったりと蔦は小十郎の胸に体を預けた。
いつかの夜より力なく胸に頭が落ちる。
小十郎は顔をそむける標郷から割いた手拭いを奪うと、彼女の体に空いた赤い穴をそれで覆った。零れる血はあっという間に手拭いを赤く染める。抑えきれなかった血が小十郎の手を汚した。
その手に蔦の手が触れる。
「寒い……」
白くなっていく唇が紡いだ言葉に、ぐっと小十郎は彼女を抱きしめた。
蔦の瞼が眠たげに下りてくる。こほ、と数度咳をしたので口元を拭ってやれば
「かたくらさま」
と小さな声が聞こえた気がしたが、……それだけだった。

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