蛟眠る 第十一話
 其の参

「はい、おしまいです」
やわらかな声音。それを合図としたかのように小十郎はやにわに床几から立ち上がった。予告のない動きに蔦が驚き後ろへひっくり返りそうになる。小十郎も驚いたが、咄嗟に手を差し出すよりも蔦が綺麗に尻もちをつく方が早かった。小十郎は深く深くため息をついて、蔦へ背を向け着物をきちんと合わせると、その上から陣羽織をひっかける。
「礼を言う」
「それにしてはずいぶんな……」
後ろで土を払う音がした。
「――あまり、手負いの獣の間合いに入らないことです」
「手負い?」
蔦がすぐ近くに来る気配がした。甘い香りさえするきがする。
「負けだろうが勝ちだろうが、戦と血の香りは男を妙な興奮へ導くもんなんです。ウチにはいないが、女郎を連れ歩く者もいる」
「女郎……」
意味のわからない歳ではないだろう。男に自らの体をつかって夢をみせることを生業とする者。そうやって日銭を稼ぐ女がいるのだ。
「俺とて例外ではない。……命危うければ人肌が恋しくなる」
背を向けたまま言えば、蔦が大きく息を吸い込むのが聞こえた。そして、ため息。
「ずいぶん率直におっしゃいますね」
「俺から離れることです――別な所で休むことです」
わずか間があり、その後くすくすという忍び笑いが耳に届いて小十郎は驚いた。振り返れば、蔦が軽く作った拳を口元に当てて笑っていた。それから小十郎の視線に気づいて、苦笑を向けてきた。
「私をたくさんの手負いの獣の中に放り込まれますか。まるで贄ですね」
「あ……」
「片倉様はときどき妙なことを仰いますね。――私は手負いの自覚のない者たちの間にいるより、歯をむき出しにして近寄るなという獣のほうが安全だと思います。……距離がとれますから」
援軍を得ていくらかよくなったとはいえ、基本的に兵たちは傷つき、怯え、疲れている――その中に蔦を放り出せばどうなるか。もし蔦の手当する手に小十郎と同じく妙な心地になった、小十郎よりずっと自制の効かない者がいたらどうなるか。そんなことは火を見るよりも明らかだった。
小十郎は思わず口元を手で覆う。蔦がそっと首を傾けた。
「――それにここには竜がいますし」
「竜」
蔦が政宗へ目を向け、つられるように小十郎も眠る主へ目を向けた。篝火の下、その顔に苦悶の影は不思議と見られなかった。
「竜はあらゆる獣の長でしょう? その下で勝手に獣が暴れることは赦されないはずです」
「……」
それに、と蔦が小十郎へ目を移してきた。視線がかち合う。
「片倉さまも竜だときいております。誇り高いいきものは卑怯なふるまいはなさいませんでしょう?」
まっすぐ見てくる目が耐えきれず、小十郎は足元少し先の地面に顔を向けた。影が落ちている。
「……事の顛末はあなたが懸念したとおりになった。――俺は蛟だ」
「え」
「蛇ほど無害じゃねぇし薬にもならねぇ。なら呼気に毒を持つ蛟だろうがよ。」
「……」
「もっとも、そんなに力のあるものだったら、っていう話だけどな」
「――唐の国では」
優しく、だが力強い声がして小十郎は蔦へ視線を戻す。いつか見た優しい顔をしていた。
「蛟は竜の幼生だときいたことがあります」
「三十路前にして幼生か、情けねぇな」
息を吐きながら言えば、蔦は困ったように笑った。
「でも、やはり私は片倉さまは竜の眷族だと思いますよ。――片倉さま、お疲れでしょう? 糒を持ってきましたから、戻してさしあげます。奥州の米は良いものですから、糒も美味しいのはご存じでしょう? 食べたら少し休むことです」
最後の言葉には逆らうな、との意味が込めてあった。小十郎はその言葉に蔦を見つめた。
「何故俺を責めない。あの時あなたは――俺に進軍を止めろと言っていた。そして今、事はあなたの忠告通りになった」
「今の片倉さまを責めてなんになりましょう。あれは事が起こる前だったから申し上げたのです。今片倉様を『それ、みろ』と責めたところでそれは『ざまあみろ』以上の意味はないのです。それは自分の気持ちを慰めるだけであって、何の解決にもなりません。予め止められず、起こってしまったことには起こってしまったなりに対処するしかないでしょう? それに、片倉様は十分ご自分をご自分でお責めです。わかっている人にあらためて上段から物を投げるようなことは、私はいたしませんよ。さあ、これからのために休んでくださいませ」
小十郎はただため息をついて
「……恩に着る」
と言った。いつの間にか口調を丁寧にすることも忘れていたが、それに気付いたのは蔦が拵えたものをすっかり平らげてからだった。

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