蛟眠る 第十一話
 其の弐

いくら疲れているとはいえ、小十郎は男である。その小十郎ができなかったことが女手にできるわけがない。そう思いながらも声にできずにいる間に、蔦はしばし小十郎の手覆いをためすがめつしたあと、それを引きぬこうとした。やはり抜けない。小十郎がもういい、と声をあげるより早く蔦は「失礼します」と言った。何をするのかと思えば、なんと蔦は革で包まれた小十郎の中指の先を優しく食んだ。分厚い革ごしに柔らかな圧迫感を感じた。甘く噛む歯と加えこむ唇の感触だ。
小十郎がその感触にギョッとしているうちにわずか手覆いがひかれて動いた。蔦は即座に口を離して、わずか指が抜けた部分をぐっと手でひっぱり、ぽんと手覆いを引き抜いた。肌が外気に触れ、自由になる。小十郎は一二度無意識に手を握ったり開いたりした後、自由になった手で蔦を退けた。
顎は手指より力がある。蔦はそれを知っていて、顎を使ったのだ。歯と唇を介して。
「もう片方はじぶんでできる。――それと口ゆすぐことです」
言えば、蔦はこっくりと頷いた。手覆いは血と砂にまみれている。食んで――いや咥えていいものではない。蔦は少し離れたところにある桶に汲んでおいた水を手ですくって口に含んだ。水は小十郎に背を向け顔ををそむけて向こうへ吐き捨てたようだが、後姿でも口元を拭う仕草が女らしく、小十郎はあわてて自分の世話に集中した。自由になった手でもう片方の手覆いを引き抜き、その後座ったままもたもたと陣羽織を脱げば、いつのまにか傍らにもどった蔦の手が素早くそれを受け取って、綺麗に畳んだ。その間に覚悟を決めて鎧も解き、着物から腕を抜く。腰をまわり肩に斜めに走る包帯には血がにじんでいる。
簡単にしか手当てをしていないのだ。
「お怪我は前だけですか」
「背にはない」
言うと、蔦が確認するように小十郎の背中に回り込んだ。
「ほんとうだわ。武士の誉れですね」
その言葉は慰めだったのか。しかし、主を守り切れなかった小十郎にはむなしい言葉だった。
小十郎は前で止めてあった包帯を外す。乱暴に引き抜こうとすれば、蔦がやんわりと包帯の端を持ち、巻きとってくれた。
あらわになった傷に小十郎の前へともどった蔦が眉を寄せた。たがそれは傷に怯えたわけではない。
「綺麗に洗って――布を当てて包帯も新しいものにしましょう」
言って蔦は新しい布を湿らせると小十郎の前に座り込んだ。ぐいと体を進めてきた蔦を膝と膝の間に迎え入れるような形になってしまい、小十郎はわずかひるんだ。傷があるのは右のわき腹だった。
傷の周囲にこびりついた汚れを拭う蔦の手は繊細だった。小十郎が見下ろせば目に入るのは彼女のつややかな黒髪ばかり。傷を見る顔は子細にはうかがえない。
その視線に気づいたか、蔦が間近で顔をあげた。ちりちりと、篝火の作りだす光の水面に女の顔が揺れる。きらきらと目が灯りを返し、見上げてくる。黒目がちだな、と小十郎はぼんやり思った。
「痛みますか?」
「いや――」
「お寒いようでしたら、何か羽織られますか?背中に傷はないですし、肩にかけられるのだったら手当の邪魔にはなりません」
「いや……」
小十郎がそういってぐっと腿の上でこぶしを作れば、蔦はわずか首をかしげたあとふたたび傷の方へと目を向けてしまった。
女は男の傷を洗い、薬を塗り、新しい布をあてがう。
細く繊細な指が自在に荒い肉の上を動いていく。触れた指の熱が厚いはずの皮膚を貫いて肉に触れてくるようだ。
小十郎はあわてて蔦があてがう傷を覆う布を自分でも抑えた。蔦が見上げてきてかすかに笑った。
ぼろぼろの指先と白い指先が一瞬触れあう。わずかなそのぬくもりが離れれば、蔦はいつのまにか新しい包帯を取り出していた。まず端を腹側に当て、くるりと胴を巻こうとする――もう必要ないか、と小十郎は布から手を離した。
その時だった。
かくん、と蔦の体が小十郎の方へ倒れ込む。驚いてわずか身を引けば
「動かないでくださいませ」
と鋭い一言が飛んできた。蔦は小十郎の鳩尾のあたりにぴったりと横顔をつけ、腰から背中へと手を伸ばしていた。
なんのことはない、包帯を前から後ろへ、後ろから前へと回そうというのだ。
だがそれには、体と体を密着させる必要がある。包帯を持って背中側に回り込む方法もあるだろうが、それではあまりにも効率が悪いから蔦のとった方法が正しい。
蔦の着けている革の胸当ての冷たい感覚がする。これは手当なのだ。
だが、しかし。
わずかな灯りの下見下ろせば、俺はどうしてこの女を迎え入れてしまったのだろう――と思う。膝の間で甲斐甲斐しく働く女。
男の武装を解くのは女の仕事だ。女に鎧を外させるのは戦が終わった時だ。そして女は男を寛がせる……。
なぜ自分はさきほど手覆いをこの女に脱がせてしまったのだろうと小十郎は思う。蔦のあのわずかの間の迷いはその意味に気付いたからだろうか?
そんなことを考える間にも、蔦は働き、躊躇なく体を密着させてくる。呼吸が変わりそうになる。歯を食いしばれば、ふと、すっと蔦の黒髪が迫った。柔らかい香りがした気がした。
「失礼いたします」
蔦の顔が小十郎の顔に近づいた。それからまた、胸と胸を合わせるように体が倒れてくる。
――いや、腰から肩へと包帯を回そうというのだ。
「腕を」
言われて、腕をあげる。包帯が斜め掛けに体をはしる。
腕を掲げたままの姿勢はまるで蔦をいましも抱きとろうかという形だ。せめてもの抵抗に内側を向いていた掌を天へ捧げるようにする。我ながら滑稽な姿勢だ、と小十郎は思った。
やがて蔦が傷と反対側に包帯を留め、小十郎は腕を下ろす。
見下ろせば蔦の顔は泥で汚れていることもなければ、傷もない――綺麗なものだった。

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