蛟眠る 第九話
 其の参

「牛ヶ城へ行け」
帰り着いた屋敷で小十郎は定郷を呼びつけ、そう短く命じた。
もはやあたりは暗く、他の部下たちはみな下がっている。標郷も秀直も兄を置いて辞した。
わずか姿勢を低くしていた定郷が顔をあげる。その顔はわずかに困惑しているようだった。
「牛ヶ城、ですか。岩瀬の――大里の城の?」
「そうだ」
「豊臣への布石ですか」
「そうなるか」
「守備のための陣でよろしいか」
「……どちらでも良いように整えろ。……いや、攻めのほうに重点をおけ」
定郷が目を見開いた。
大里の牛ヶ城とは、伊達の本拠地よりも南方にある山城のことで、白河の関にも近い城である。
定郷はこれまでにも――旅人を装ったり、小十郎の随従や使いとして奥州のあちこちに足を運んでいた。もとより目鼻が聞くのか、定郷がその町のもつ雰囲気や気性、交渉相手の空気や人柄を読むことに長けているのに小十郎が気付いたのは弟たちの彼に対する評を聞いた頃だったか。
貴人の間を探らせるよりむしろ、町人の間に溶け込むのを得意とする定郷を己が駒として使いだしたのはその少し後だった気がする。いつかの河原で子どもたちと遊んだかのように、見知らぬ街に三度も足を運ぶと彼は老人と茶飲み友達になり、通りすがりの農民に野菜をもらうほどになる。どうやっているのかは謎だが、それまでも定郷のその奇妙な人読みの能力が役に立つことが多々あった。
「牛ヶ城は関東への足がかりにもなる、白河の関近くの足場として是が非でも押さえておきたい。が……」
「かつてはあそこは伊達と争う者の土地。不安がありますね」
「承知ならいい、なすべきことはわかるな」
是、と定郷は頭を下げた。しかし次に頭をあげた定郷は、難しげな顔をしていた。
「しかし、攻め上がるとは」
「まだ決まったわけじゃねぇ。攻めるにしろ守るにしろ、牛ヶ城のあたりは要になる」
「それは承知しておりますが……」
定郷はしばらく言葉を探したようだった。
「……殿は、はっきりと、進軍をお止めするものとばかり」
――よもや攻めに重きを置いた上で守りでも対応できるようにしろ、と言われるとは思いませんでした。
定郷はそう言った。
「守るための陣を敷く、と命じられるとばかり」
「……どうしてそう思う」
小十郎は定郷を睨みつけるように見ながらそう言った。だが聞きながらも、小十郎は答えを知っていた。定郷はぐっと顎を引いた。
「――伊達が無力とは申しませんが、豊臣の兵力は強大すぎます。我らはあくまでも、とある血族の中でその筆頭をの地位を得たような所がありますゆえ」
――やはり。
と、小十郎は胸の中でだけ呟いた。
この男も、あの女と同じことを言うのだ。
ふとその時、庭先でカサリとなにかが音を立てた。小十郎は立ち上がり、庭に面する戸を開けた。
……暗い木々の間を、風がすぎだけだったようだ。
何も見えない枝の間を睨みつけた後、小十郎は強く息を吐き出した。定郷が訝しむ気配がする。
「……俺はもう少し、政宗様に言葉を重ねるべきだったかもしれん」
「……は?」
たしかに、小十郎は軍議の場で、兵力・物量その他諸々の差について具体的に言及しなかった。
知らなかったわけではない。むしろ、それは明確に提示されるべきものだった。
一度叩いたからといって豊臣は引き下がるものだろうか、と。
圧倒的な物量で、伊達軍を踏みつぶすのは容易ではないだろうか、とも。
兵力も――そうだ、それは夏の蠅のように、伊達が奥州の筆頭であるという寄せ餌を掲げつづけるかぎり、延々とわき出るように攻め来るのではないだろうか……。
そこまで考えて、小十郎は眉間を撫でた。木々がざわめく。
「――俺は間違いを犯したのかもしれん」
「……では、今一度登城され、政宗様に進軍は取りやめるようはっきりと申し上げられては」
定郷の言葉に、小十郎は首を振った。
「――それもあるが……」
――片倉さまは、もしや、力試しをしたいのでは?
諌言――いやそんなものではない。もっと身近な、そう、忠告と戒めの言葉だ。
小十郎は蔦の言葉を思い出し、あの畦道で自分が判断を誤ったのではないかと思ったのだ。
――禄や所領が増えれば、家中の者なども増えましょう。奥、というのはただの負担ではなく、それらを取り仕切るものでもあります。片倉様、所帯を持つということはそれをしてくれる者を迎え入れるということでもあるのです。
かつて蔦が母の受け売りだと付け加えながら言った言葉だ。
今になって、蔦を奥に向かえるということはその利点だけではなかったのではないか、と小十郎は思う。
支え、時には戒め叱咤する。
その存在を自分は拒否したのではないか。
そしてそれは今、伊達の不利益になってはいないか。
「……殿、いかがなされました?」
物思いは、定郷の声によって遮られた。
「それで、城へ行かれますか」
「……いや」
小十郎は言った。
「すべては政宗様の御判断だ。……俺は従うまで」


そして政宗は決断を下した。
小田原へ駒を進める。
天秤は傾いた。
軍議の場にて一同が平伏する。
平伏しながら小十郎は――蔦の責めるような顔を思い出していた。

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